『宇宙戦艦ヤマト』を問い直す

●「「宇宙戦艦ヤマト」の真実 −いかに誕生し、進化したか」
 著 者:豊田有恒
 出版社:祥伝社新書
 刊行年:2017年
 定 価:842円
 
 私は「ヤマト」世代よりも少し若いのだが、テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には強い思い入れがある。テレビアニメシリーズ第1作で「SF設定」豊田有恒氏による本書は、読み始めてたちまち引き込まれる筆力で、「ヤマト」誕生までの道筋が克明に描かれている。
 ただ、「ヤマト」について語る際、これは豊田氏もそうだし、誰が語ってもそうなってしまうのだろうが、プロデューサー・西崎義展の存在を避けて通れない。
 そうなると、2年前に出版されて話題になった次の本に触れることになる。
 
●「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気」
 著 者:牧村康正・山田 哲久
 出版社:講談社
 刊行年:2015年(講談社+α文庫:2017年)
 定 価:1,620円
 
 タイトルのとおり、西崎義展という稀代のプロデューサーの、よく言えば辣腕、悪く言えば傍若無人な仕事ぶりと人生を描いた評伝で、その「狂気」溢れる内容は圧倒的だった。
 
 日本のアニメ史の中で、『鉄腕アトム』と『宇宙戦艦ヤマト』の存在感は文字通り別格で、良し悪しはそれぞれの専門家の見識次第だとしても、それらがなければ「その後の日本アニメはない」と言い切ってもよい作品である。
 その意味では、『機動戦士ガンダム』をどう連接させるか、そして『新世紀エヴァンゲリオン』をどう位置づけるか。
 『エヴァ』でいえば、「社会現象をもたらした」と言われはするけれど、どちらかというとアニメ周辺の知識人たちの盛り上がりのほうが目立ち、『ヤマト』のように観客(当事者)がブームを作り上げた状況とは質的に異なる。加えて、『ヤマト』の頃は当事者以外はほとんど全員がアニメに無理解な「敵」だったが、『エヴァ』のころは、たとえば「おたく」に対する偏見があったとはいえ、アニメブームを体感した新しい世代が社会の中心領域を占めはじめており、その時代性はまったく違う。
 
 私は常々、日本のアニメ史を本質的に分析し論じるためには、これまでにない新しい理論の構築と提案が必要ではないかと考えている。
 90年代以降、ポスト・モダニズムカルチュラル・スタディーズなど欧米由来の学問体系に依拠する識者らが盛んにアニメ分野を題材にしてきたが、それらの成果にいまひとつ食いきれない印象が残っただけではなく、活躍していた彼らでさえ、しばらくはアニメに取り組みつつも、やがて離れていく人が多いのは、やはり彼らが依拠する既存の理論では、日本のアニメを捉えきれないからではないのか。
 
 ここで紹介した2冊は、かたや「歴史の証人(著者・豊田氏の言)」による、かたや当事者の周辺にいた人たちによる証言集であり、なぜあの時代に『ヤマト』が誕生し大ヒットしたのかという問いに、時代性をふまえて言及したものとは言い難い。
 しかし同時に、そうした問いに、つまりは『宇宙戦艦ヤマト』を「アニメの現在」から問い直すためには、どうすればよいのか。
 貴重な当事者達の証言を、活かさなければならない。

アニメーションの美術館展示とは :国立新美術館「新海誠展」

 フェイスブックで先に書いたのだが、少し加筆しつつ、こちらでも。
 国立新美術館での「新海誠展」、昨日、すべりこみで見てきた。美術館でのアニメーション展示の難しさは、やはり感じたが、いろいろな制約があるだろう中で、比較的要点を絞った内容にまとまっていたように思う。
 
 いつごろからか、美術館での「アニメーション」展が行われ、しかもそこに大量の原画、レイアウト、背景画などが展示される方法が一般的になった。
 おそらく、2006年の「ディズニー・アート展」、2008年の「スタジオジブリ レイアウト展」あたりのインパクトが、その流れを確固たるものにしたと思われる。
 一方で、アニメーションは上映(放映)される映像が完成形であり、そのプロセスに至る「完成形ではない」原画やレイアウトの展示が、美術館でのアニメーション展示の主流になってよいものか、という声を私はアニメ制作者の意見として聞いたことがある。このあたりが、アニメーション展示の難しさである。
 
 それらを前提として、今回の新海誠展での印象をいくつか書くと、まず、展示の順路。入場口と退場口にそれぞれ新海作品のダイジェスト映像を配した演出は面白かったが、それ以外は、新海監督の系譜を順にたどるように、『ほしのこえ』から『君の名は。』に関連する展示が並んでいた。
 それよりも、たとえば最初の展示室で新海監督の独自性をクローズアップして紹介し、あらためて第1作『ほしのこえ』からたどっていく、という形にしてはどうだったか。そのほうが、なぜ新海誠というアニメ監督がここまで注目されたのかを端的に説明することができるように思う。つまり、系譜をたどるのではなく、テーマを定めてたどるのである。
 きわめて意地悪な書き方になるが、現在の新海誠監督は、「しょせん1本が大当たりしたところ」「実質的なファン層は、まだまだマニアックの域を出ない」という捉え方を排除すべきではない。
 
 今回展示を見て、あらためて新海監督の系譜にはいくつかの転換点があることを認識した。これは、画家や小説家を含めて、作家という立場の人にはしばしばある。
 一方で、彼が修正原画やレイアウト用紙に小さな字でびっしり書き込んでいる内容に頻発する「L/O」「BG」などの意味は、一般の鑑賞者にはすぐには通じないと思うが、それはそれで面白いと思える展示になっていたかどうか。
 そして、これは知人の研究者から指摘されて私も同じ感想をもったのだが、多くのファンが「新海節」として認識しているであろう緻密極まる背景画の展示が、ロケハンの写真と実際の画面との比較など、わかりやすくはあったが、背景画それ自体の展示としては、実にあっさりしていた。
 そんなふうに考えていったときに、ではアニメーションはどのような美術館展示がありうるのか、という点に思いが至る。
 
 私は基本的に、フィルムという完成形に至る前の「調理段階」の原画やレイアウトをそのまま見せるやり方は、アニメーション展示としてベストではないと思っている。
 しかし今回の新海誠展の原画やレイアウトの見せ方には、今後の美術館におけるアニメーション展示の在りようを議論するヒントがあったように思う。それが何かは、また別の機会に。

「旅と鉄道」 アニメの聖地巡礼について思うこと

●「旅と鉄道」2017年5月号 「鉄道×アニメ 聖地巡礼
●「旅と鉄道」2017年12月増刊号 「アニメと鉄道」
 出版社:山と渓谷社
 刊行年:2017年
 定 価:1,000円(いずれとも)
 

  
 アニメの舞台に絡む、いわゆる「聖地巡礼」が盛んだ。わかる人にはわかる、マニアの密やかな楽しみだった「聖地」がマスコミに開放されたのが、埼玉県鷲宮町を舞台にしたテレビアニメ『らき☆すた』(2007年)あたりをきっかけだと考えても、もう10年以上になる。やがてそれが学術研究の題材になったり、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『君の名は。』『この世界の片隅に』、そして『ユーリ!!! on ICE』まで、新たな作品がさらに聖地巡礼を盛り上げ、多くのメディアがその現象を取り上げている。
 それを象徴する一つが、ここで挙げた鉄道専門誌の特集だ。マニアックということでいえば、鉄道とアニメには古くから親和性がありそうだが、1年で2度も特集を組み、その内容も十分に濃いものであるのは、やはり感慨深い。
 などと書きつつ、実は私も相当に年季の入った鉄オタで、昔は撮り鉄、今はもっぱら乗り鉄、シーズンには年甲斐もなく青春18きっぷを買っている。
 夜汽車が事実上なくなり、鈍行列車も寸断された今は、昔に比べるとだいぶ鉄道旅行の楽しみは減殺されたが、それはそれで郷愁が増し、またどう変化しようとも、こうして「アニメと鉄道」というキーワードで新たなファンを増やしているのは、私自身がアニメ研究などに身を置いていることも相まって、素直に嬉しいものである。
 ただ、ここで挙げた雑誌も含めて、不満が一つある。それは、掲載されている文章だ。
 フルカラーの誌面なのだから仕方ないとも言えるが、満載された写真や旅行のための情報に比べて、掲載されている文章は読み応えがいまひとつで、またマニアでなければ理解し得ない書きぶりも少なくない。なにより、掲載されている写真と一体になって読まないと面白みに欠ける文章になっている。読み応えがあったのは、5月号に掲載された江上英樹氏の「すずさんが乗った鉄道を探して」くらいかもしれない。
 私の持論は、文章はあくまで文章であって、併載の写真がたとえ1枚もなくても、文章「だけ」で読み応えのあるものになっているかどうか、が重要なのである。
 加えて、アニメの聖地巡礼について書くにあたって、その聖地(作品の舞台)そのものの訪問記やガイドブックにとどまっているのも物足りない。
 聖地巡礼は、あくまで「旅」である。自分の住まいの最寄り駅から列車に乗り、移動し、車窓が流れ、腹がへったら駅弁や立ち食いそばを楽しみ、やがて目的地に着く。そこはアニメの聖地ではあるけれど、街には歴史があり、今もさまざまな人が生き、日常を過ごし、そして夜がきて朝を迎える。ましてや、聖地巡礼について書かれたもので、途中下車の楽しみを書けているものが、どれだけあるだろうか。
 そうした聖地への旅の「空気」それ自体を感じ取り、それを文章で書き、結果として、アニメや鉄道に興味のない読者にまで通じるような文章でなければならないのではないか。そうでないと、アニメや聖地巡礼や鉄道も、いつまでたってもマニアから開放されない。
 別に開放されなくてもいい、と考える人が多いのかもしれないし、アニメも鉄道も以前に比べればだいぶ開放されてきたとは思う。出版物が売れない今、どういう誌面にしなければならないのかという事情も想像できる。
 それでも、アニメや鉄道の旅には限りない魅力があると私は強く信じているので、それを題材にした文章やメディアには、もっと役割があると思うのである。

新千歳空港国際アニメーション映画祭 :未来志向の発信力と今後

新千歳空港国際アニメーション映画祭
 http://airport-anifes.jp/
 
 1ヶ月近く前の話題になってしまったが、11月2日から5日にかけて開催された北海道・新千歳空港国際アニメーション映画祭に今年初めて参加することができたので、書いておきたい。
 日本で「国際アニメーション映画祭」といえば、1985年からほぼ2年に1度開催の広島国際アニメーションフェスティバルが有名である。フランスのアヌシーなど国外のフェス参加経験のある人は少ないだろうし、日本でのアニメーション映画祭のイメージは広島が形成してきた。私自身、30年にわたる広島にはほぼ毎回参加し、その歴史や成果、経年変化、そして課題も目の当たりにしてきた。
 そうした中での新千歳の第一印象は、「広島とはまったく違う、新たな価値観の形成を恣意的かつ意欲的に目指している」というものだった。
 
 国際映画祭のメインプログラムは、新作がグランプリを競う「コンペティション」である。広島では、コンペティションが一つの大きな枠で組まれているが、実はこれは世界的に見て珍しい運営方法で、通常は、メインとしてのコンペティションのほか、学生作品、CF、TVアニメ、そして長編など、いくつか部門別のコンペティションがある。
 新千歳でも、メインの「インターナショナルコンペティション」とは別に日本作品を集めた「日本コンペティション」、「ミュージックアニメーションコンペティション」があり、それぞれ受賞作を選出する。そして「インターナショナル」のなかでもファミリー向け作品を集めた枠も設けられている。
 私は、「ファミリー」のみ二日酔いで寝坊したおかげで見逃したのだが、それ以外はすべて見て、上述の第一印象を抱いた。つまり、技術的には既存のありふれたものであってもその技術の使い方・見せ方に独創性がある作品、内容(ストーリーなどを含めて)の構成が先進的で「見る者を惑わせる」ことを恐れない作品などが目白押しで、結果として、キャラクター、デザイン、ストーリーなど、アニメーションという表現の「上に乗っかっている」要素を超えて、アニメーションそのものの価値や未来を追求しようとする作品が揃っているのである。
 そのため、たとえば広島ならコンペに残ることが考えにくい「稚拙に見える」作品が新千歳では堂々と入り、それが映画祭としての主張を鮮やかに彩っている。
 もっとも、グランプリは『Dolls Don't Cry』というカナダの人形アニメーションで、完成度はきわめて高いが、同時にオーソドックスな仕上がりの作品なので、受賞は逆に意外に感じたが、受賞そのものには異論はない。
 もう一つ、自治体が主催する広島とは違って、コンペでの企業賞をたくさん作っていることも非常に好ましく思った。サッポロビール北海道銀行よつ葉乳業など地元企業名を冠した賞がたくさんあると、それだけ受賞作が増えるし、授賞式も華やかになる。

 こうした新千歳の「広島とは違う」価値観は、開催4年目にして世界中に伝播したようで、今年についていえば、コンペへの出品作品総数は2037作品を数えた。これは広島など他の著名な国際アニメーション映画祭と比較しても遜色ない。
 そして、コンペ以外のプログラムでは、私が「アニメーションの華」と考えている長編、それも商業アニメ系の長編の上映が多いことも新千歳の特色だ。この映画祭を仕切るフェスティバル・ディレクターが高く評価する湯浅政明監督の特集は当然のように組まれ、また『銀河英雄伝説 わが征くは星の大海』(1988)など、どういう理由で上映することになったのかをメインスタッフの一人に訊くと、「私の趣味!」という答えが返ってきた。
 
 課題を挙げるとすれば、観客をどれだけ集めるか、そして新千歳ならではの発信力をどう高めるかにつきる。「これだけいいものを揃えている、やっているのだから、見てもらえればきっと理解される」という考えが新千歳の運営側にあるとすれば、広島と同じ課題にぶちあたってしまうだろう。それはつまり、アニメファン、それも短編・アート系アニメの界隈に熱気がとどまってしまうということだ。
 初回から今回まで、どの程度観客が増え、話題が広がっているかを私は知らないので、いい加減なことは書けないが、映画祭の発信力については、間違いなく広島とは異なったもの、刺激的なものを感じた。
 運営側は、この独創的な発信力をどう使うか、そして新千歳で開催し(地の特性と利点)、それも広島に匹敵する規模の国際アニメーション映画祭(存在感)で、何をどう一般化できるかという点を冷静に突き詰め、分析し、その結果には謙虚に向き合って、臨機応変に運営することで、この未来志向型の国際アニメーション映画祭を成長させてほしいと強く感じた。

芸術新潮 2017年 9月号

●「芸術新潮 2017年 9月号」
 出版社:新潮社
 刊行年:2017年
 定 価:1,440円

  https://www.amazon.co.jp/dp/B074JRWX4N/
 
 だいぶ更新が滞っているが、アニメ周辺の新たな分野を立ち上げつつ、そろそろ積極的に書いていきたいと思う。
 が、その前に。今年は「アニメ100周年」が謳われ、多くのメディアがアニメ特集を組んだが、業界自体にはその盛り上がりは感じられない。それでも、今までアニメには無縁と思われていたメディアがアニメを扱う意義は、素直に評価したい。
 その代表的な成果がこれ、もう3ヶ月前になってしまったが、「芸術新潮」がアニメ特集を組んだということで話題になった。
 目玉記事は、アニメの識者30人が選出した「日本アニメベスト10」の集計で、私も選出に参加したのだが、第1位『新世紀エヴァンゲリオン』、第2位『機動戦士ガンダム』、第3位『宇宙戦艦ヤマト』という順位には、「なんで!?」という気持ちと「やっぱり!」という気持ちとが交錯する気分になった。
 それでも、選出に参加した30人の識者それぞれのベストテンやコメントを読んでいると、これは私も含めてなのだが、自分1人でベストテンを選ぶというよりも、大勢で選んだ結果を集計すると自然に落ち着いた順位になるんじゃないかという、ある種の「読み」を前提として選んだと理解できる。したがって、誌面の編集部のコメントにもあるように、「それぞれが貴重なリスト」ということになろう。
 そして私は、「今、アニメの時代 −それはなぜ日本で発展したのか−」と題する論考を寄稿した。論考というよりも、「数年前のことである」などという書き出しで始まるのだから、エッセイに近い筆致で書いた。日本でアニメが発展した背景として、やや偏った切り口(別な言い方をすれば絞り込んだ切り口)で書いたが、私としては「ガチな論考」を離れて書きたかったので、非常に有意義な仕事になった。

日本アニメが100年

 今年は、日本で初の国産アニメーションが公開されて100年にあたっている。業界では盛り上がりに欠けるが、周辺ではそれ相応に動きがあり、私もいくつか声がかかっている。その一つがこれ。
 UCカードの会員向け情報誌「てんとう虫」3月号の「特集・日本アニメが100年」 りんたろう監督や神山健治監督へのインタビューを含む25ページもの特集で、かなり読み応えがある。テキストの大半は氷川竜介さんの担当で、私は戦前から東映動画設立までの解説を担当した。
 カード会員向けの雑誌だが、一般でも「バックナンバー」として、下のサイトから購入できる。
 http://www2.uccard.co.jp/tentou/index.html

新版 アニメーション学入門

 新刊のご紹介です。
 「新版 アニメーション学入門」(平凡社新書
  https://www.amazon.co.jp/dp/4582858368/
 
 2005年に出版した「アニメーション学入門」の、約10年ぶりの全改訂新版です。
 この10年のアニメ界は本当に話題が多く、デジタル技術の発達、深夜アニメの定番化、スタジオジブリの動向、クールジャパンなどなど、枚挙にいとまがありません。そうした話題を盛り込み、現在のアニメ界を考えるにあたって最も基本的な知識・情報を集めました。
 もちろん、字数には限界があり、また私の能力が追いつかないところもありますので、「書いてあること」と「書いていないこと」のバランスには、いろいろなご意見もあろうかと思います。本書をご一読いただいて、自分ならば何を書き加えるかを考えていただくことも意味があろうかと思います。
 そうは言っても、『君の名は。』『この世界の片隅に』『映画 聲の形』など、様相がまったく違う形で大ヒットした長編アニメが相次ぎ、日本のアニメ界にとって記念碑的な年になった2016年の諸状況に触れることができたのは幸運でした。
 海外のアニメーション事情に多くのページを割いていることも本書の特色ですが、少しずつながら、『アナと雪の女王』、『父を探して』、イゴール・コヴァリョフ、ドン・ハーツフェルトなどについても触れています。
 「新たなスタンダード」として、ご一読いただければ幸いです。