東京アニメアワードフェスティバル2026(後編)

 TAAF=東京アニメアワードフェスティバル2026について、前編に引き続いて後編では、会期中にあったシンポジウム「オリジナル長編アニメーション、取り巻く環境の変化と未来」(3月15日開催)について述べる。
 映画祭パンフレットでは、このシンポジウムの案内の中で、「ここ数年、劇場公開される長編アニメーションは、大ヒットを記録する漫画原作作品が市場を牽引する一方で、オリジナル作品は興行面で厳しい状況が続いている」とある。
 
 私がこのシンポジウムを傍聴したのは、以前から気になっていた主題だからでもあるが、それ以上に、最近の経験が大きな動機になった。
 それは、あるアニメ監督と個人的に話をする中で、アニメ監督が私に「最近多くの長編アニメが公開されているが、(興行的に)売れていない作品が多い。それはなぜだと思うか」と問いかけてきた。
 私は、何やらあいまいな答えをしたのだが、アニメ監督は一言、
 「売れていないのは、面白くないからですよ」
 私は、ハッとなった。「面白くないから」は、まさしく、簡にして要を得た評価である。
 かつて、鉄道紀行作家・宮脇俊三氏は、次のように書いている。氏は作家デビュー前、出版社勤務の経験をもつ。少し長くなるが、引用する。
「私は長いあいだ中央公論社に勤務し、おもに書籍の刊行にたずさわってきたので、本とその売れ行きについて一喜一憂した。その経験から得たものを、ひとことで言えば、
 「売れるものは良書である」
 だった。
 とんでもないことと思う人は多いだろう。
 しかし、そうではない。自分で金を払って本を買い、それを長い時間をかけて読むという行為は、その前提として、きびしい選択があるのだ。つまらない本を買って読まされれば腹が立つ。タダで本をもらって斜めに読んで書評し、原稿料をもらうような批評家とは基盤がちがうのである。映画、演劇、プロ野球でもそうだろう。売れそうにない「良書」ばかりを選んで紹介し、それが文化欄の使命であると考えているらしい一流新聞紙とはちがうのであって、読者は、自分の金と時間を使って本を選んでいるのだ」(宮脇俊三「旅は自由席」所収、新潮社、1991年)
 現在とは文化状況や情報入手の手段、さらには「タイパ」が重視される世相との違いはあるだろうが、氏が指摘するように映画も同じであって、観客は自分の金と時間を使って映画を見ているところは変わりない。
 注意しなければならないのは、逆説的に「売れないものは良書ではない」とは言えないところである。優れた作品でありながら、さまざまな事情で人目に触れる機会が少なく、売れ行きが良くないものはあるだろう。
 しかし、映画、そしてアニメも「売れない良作」は、ないことはないだろうが、「売れる作品は良作である」ことに、変わりないと思う。そして、では「良作」とは何かを考えるところで、知性や教養が問われる。
 
 前置きが長くなったが、以上のようなこともあって、シンポジウムを傍聴した。
 パネリストは、竹崎忠(トムス・エンタテインメント代表取締役社長執行役員)、伊藤智彦(アニメーション監督)、飯塚寿雄(松竹 アニメ事業部長)、杉本穂高(映画ライター)の各氏、モデレーターは藤津亮太氏(アニメ評論家)である。
 冒頭、アニメ映画を取り巻く環境について、竹崎氏の「アニメ映画の2極化がすごい。『鬼滅』以降、観客のクオリティに対する求めが強くなった。観客の眼が肥えているので、アクセルを踏み続けるしかない」という発言で始まった。
 シンポジウムの内容は後日映像配信されるようなので、ここでは、私自身が気になった、印象に残った内容について書いていく。
 まず、そもそも「オリジナル長編アニメーション」とは何かについて、藤津氏がその「グラデーション」を整理して述べた。それによれば、1) 原作をまったくもたない「オリジナル脚本」による長編アニメ、2)「一般の小説」を原作とする長編アニメ、3)「個性的な漫画」を原作とする長編アニメ、という3パターンである。
 厳密にいえば1が「オリジナル長編アニメ」だが、2はビジュアルをイチから作る、3はオリジナルとは言い難いものの、原作が人気連載漫画でなければ「オリジナル的」との考え方である。これらの分類は、妥当だと思う。
 ただ、これらの違いによって、オリジナル長編としての興行成績にもグラデーションが生じているかというと、そうでもないように思う。
 竹崎氏は、「IP(ここでは原作という意味)、監督、ストーリー」の3つを挙げ、「ストーリーがよければ、絵のクオリティよりも成功する確率が高いのではないか。誰でも知っているIPでなければならない、にならないように、監督の知名度の向上を」と述べた。
 しかし、映画祭の役割について話題が及んだ際、竹崎氏は「(最高峰の)アヌシーで受賞しても成績は取れない」と述べ、映画祭の興行成績向上への寄与には疑問を呈した。長年、映画祭を見てきた私も同感である。
 一方、飯塚氏は、「何かしらのオンリーワンの価値観がなければならない。『ルックバック』があれだけ当たったのは、今の若者が新しい価値を求めているのではないか」と指摘した。
 さらに、「なかなか(興行成績)3億円の壁を超えない」という藤津氏に対して、杉本氏は「3億円をどう考えるのか。かつて今 敏監督の作品でも1億から始まった」と述べた。
 これは、新海誠作品でも言える。新海作品といえば『君の名は。』の250億円を超える興行成績に、つい眼を奪われがちだが、彼が『君の名は。』より前に監督した4本の長編アニメ(いずれもオリジナル長編)の興行成績は、いずれも数千万円から1億円程度だったのだ。
 伊藤氏は、「平日の午前中に映画館に行くような人をターゲットにしたい」「オリジナル長編は、原作つきとは違う。コアスタッフたちで話し合い、面白くなりそうだ、というところからスタートする」と、長編アニメ監督としての考え方の一端を語った。
 
 モデレーターやパネリストたちからは、さすがに「売れないオリジナル長編は面白くない」という趣旨の発言は出てこないが、私なりに聴いた印象では、そうした考え方を完全に否定する場でもなかった。
 シンポジウムで出た「今の観客は、安心できるもの、お金を払って返ってくるものを選ぶ」という指摘や、劇映画『カメラを止めるな!』『侍タイムスリッパ-』『国宝』などのタイトルを挙げながらの「オリジナル作品でヒットするものは、アニメか実写かは関係ない」という考え方は、まさに「面白いものは面白い」というきわめて素朴でありながら核心的な解答に到達する。
 実際、ここ数年を振り返っても、『BLUE GIANT』(立川譲監督、2023年、13億円)『ルックバック』(押山清高監督、2024年、20.4億円)、『ひゃくえむ。』(岩井澤健治監督、2025年、上映中)などのような、本シンポジウムでいうオリジナル長編に該当、もしくはそれに近い存在でありながら、成功した作品がある。観客としての私からすれば、これらの作品はいずれも、文句なく面白かった。
 一方、作品名は差し控えるが、著名なアニメ監督(これも、大衆的に著名な場合と、アニメファンの中で著名な場合とがある)の作品であっても低調な興行成績で終わった作品は多く、率直に言って面白くない作品も少なくなかった。
 もう一つ、成功したオリジナル長編は、アニメファン以外の一般の観客の心を捉えた、という共通項があるように思う。やや古い作品になるが、『この世界の片隅に』(片渕須直監督、2016年、27億円)の成功が好例である。そして、興行成績は未詳ながら、岩井澤健治監督の前作であり、自主制作による長編アニメ『音楽』(2020年)の上映館での、伝統的なアニメファンではなさそうな若者観客の集結と熱気は、シンポジウムで指摘された「新しい価値を求めている」観客の実態を目の当たりにしたようだった。
 
 最後に、シンポジウムで出た話題の中で、ヒットするオリジナル長編の出現には、アニメ監督の知名度を向上させることも必要、という意見について。
 私は、この考え方はやめたほうがよいと思う。
 そもそも日本のアニメ映画は、諸外国と比較して、作品の中で監督の占める役割が大きいという伝統がある。それは、劇映画『紅い眼鏡』(1987年)の制作を終えたばかりの頃の押井守監督が、すでに「世界中のアニメの中でも、日本ほど演出に比重がかかっているアニメはない」と指摘している(「朝日新聞」大阪本社版、1987年5月7日付夕刊)。これは、日本の長編アニメの実質的な歴史が、東映をバックに控える東映動画から始まったことと無関係ではない。
 2000年代に入った頃から、ヨーロッパでは作家性を重視した長編アニメーション監督が現れ、継続的に長編を制作している監督も何人かいるが、日本の場合とは、やはり事情が異なる。しかし、そんな日本のアニメ界の内部事情や歴史は、当然ながら一般大衆に浸透していない。
 だからこそ、自分で金を払って時間をかけて映画鑑賞しようとする一般の観客は、「監督が誰か」で作品を選ばない、という前提に立つべきではないか。それは、スタジオジブリ作品でさえ同じで、観客は「ジブリ作品だから見に行く」ことはあっても、「監督が誰か」で見に行って満足することを、どれほど求めているのか。
 観客は「面白い作品」を見たいのであって、著名なアニメ監督の作品であっても「面白くない作品」を見せられれば、「良かった探し」をすることなく腹を立てるだけである。ましてや、制作者側の「事情」や「思い」を斟酌する一般の観客など、いるはずもない。
 シンポジウムの最後近くで「映画公開初日の「5,000人」の観客が、面白かったと発信してくれるような映画」の必要性が指摘されたが、そんな映画とは何かを追求することが、シンポジウムで掲げられた主題の解答に一番近いのではないかと思った。

東京アニメアワードフェスティバル2026(前編)

 毎年3月に開催されるTAAF=東京アニメアワードフェスティバル2026。東京アニメフェアから独立して国際映画祭になったのが2014年で、今年で13回を数えるまでになった。
 長編と短編とに分けられたコンペティション部門のほか、アニメーション関係者やファンの投票による「アニメ・オブ・ザ・イヤー」部門、アニメ界での長年の貢献者を顕彰するアニメ功労部門、そして招待作品の上映が、主なプログラムである。
 私は、国際映画祭参加の常としてコンペティション部門中心の参加で、今回も長編、短編ともすべての作品を鑑賞した。
 そのほか、映画祭のオープニング作品として上映された長編の招待作品『ARCO/アルコ』(U・ビアンヴニュ監督、フランス、2025年)を見たほか、シンポジウムの中から「オリジナル長編アニメーション、取り巻く環境の変化と未来」を傍聴した。特にシンポジウムは、私もここ数年気になっていたテーマで、これはこのレポートの後編で詳しく紹介したい。
 前編では、コンペティション作品から、所感をまとめる。
 
 今年のTAAFでの長編コンペティション部門は、31の国と地域から39作品の応募、短編コンペティション部門は、71の国と地域から997作品の応募があった。
 長編コンペでは、4人の選考委員の一次選考を経て4作品が本審査作品として映画祭で上映され、短編コンペでは8人の選考委員の一次選考を経て23作品が本審査へ進み、上映された。本審査での審査委員は、いずれの部門とも4人である。
 まず、長編部門では作風がまったく異なる4作が選ばれており、好ましいラインナップだった。ただ、実質的には短編集だったり、強く影響を受けた先行作品が感じられたり、出来には少々差があったのも事実である。
 そうした中で、やはり『広場』(キム・ボソル監督、韓国、73分)は心に染みる印象的な作品だった。
 在ピョンヤンスウェーデン大使館に勤める外交官の青年が、ピョンヤン市内の交通整理員の女性と惹かれ合う。彼の祖母は朝鮮半島出身者で、戦火を逃れてスウェーデンに移住したので、彼は勤務当初から朝鮮語に堪能だった。
 スウェーデン大使館でも、ピョンヤン勤務を敬遠する者は多かったが、彼は彼女の存在からか、長く住んでいる。しかし、その2人にも監視の眼が光り、やがて彼女は市内から追放されてしまう。
 我々日本人にとって、朝鮮半島の二つの国との関係は身近な話題だが、それとは違う恋愛劇が主軸の本作は、ていねいな映像、作画とも相まって、人間ドラマの一つの完成形になった。
 ただし、そのぶんアニメーションで描くことの妥当性は問われかねない。いわゆる韓流ドラマのような仕上がりだからである。舞台のほとんどがピョンヤンなので、ロケーション撮影が困難だという事情はある。タイトルになっている広場のシーンや、建国者の巨大な銅像が立つ場などで、時折びっくりするような、ダイナミックなショットがあり、工夫は見られるが、アニメーションとしての創造力や独創性をもう一歩追求してほしかった。
 とはいえ、本作は長編部門のグランプリを受賞した。
 
 短編部門では、これは東京だけではなく、選ばれた作品群全体で特性が形成される傾向がある。どのアニメーション映画祭でも、数10本ものノミネート作が選ばれるので、自然にそうしたことになる。
 東京では、コンペティションの「評価の要素」として、独創性、先進性、共感性、技術力の4項目が挙げられている。私は過去に長編部門や功労部門の選考委員を務めたことがあり、そのときの経験も踏まえると、4項目のうち、特に共感性と技術力に注目しているのではないかと感じてきた。
 その結果、比較的ストーリーラインがわかりやすい作品とか、古典的な作風の中に先進性が織りまぜられているといった作品が集められる。もちろんこれはトレンドであって、絶対的なものではない。
 今回の短編部門グランプリの『今日は土曜日なのに』(A・ギマランイス監督、ポルトガル・フランス・スペイン)、優秀賞の『結末はただ一つ』(P・ミルチャレク監督、ポーランド)の2作は、どちらも「あるある感」というか、見ていてクスっと笑ってしまうような作品である。最近の、他の国内開催のアニメーション映画祭では、逆に「先進性がない」などとして選外になってしまいそうな作風であり、そのぶん東京での受賞には価値がある。
 私が印象に残った作品は、スペイン内戦時の女性を描いたドキュメンタリータッチの『カルメラ』、戦前のモントリオールで孤児だった主人公の不思議な体験を描いた『真珠の涙と少女』である。どちらも人形アニメーションで、やはりこういう昔ながらの技法で、アニメーションならではの世界を紡ごうとする作品に出合うと嬉しくなる。
 総じて、「親しみやすさ」を忘れない、TAAFならではのコンペティション作品が並んでいた今大会だった。
 
 そして、オープニング作品として上映されたのが長編アニメーション『ARCO/アルコ』である。
 昨年から今年にかけて、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭をはじめ各映画祭で受賞、ノミネートした作品で、4月末からは全国で上映が決まっている。
 ストーリーは、2075年、気候変動によって荒廃が進んだ世界が舞台。主人公は少女イリス。彼女はある日、不思議なマントをまとった少年アルコを助ける。アルコは、はるかな未来からタイムトラベルでやってきた。元の時代へ戻ろうとするアルコと、それを助けるイリス。二人はどうなるのか。
 タイムトラベルでやってきた少年が登場するとはいっても、作品自体にはSF色はあまりない。二人はそれぞれ、家族、家庭環境に不満をもち、この日常を変えたいと考えていた。友情が芽生えた二人を通じて、家族とは何か、守らなければならないものは何かが問いかけられる。
 伝統的な長編アニメーション大国であるフランスの作品らしく、登場人物の華麗な飛行シーンから、家族や個人といった価値観までが盛り込まれた、見ごたえある作品だった。
 後編では、今回私が唯一傍聴したシンポジウムについて述べる。
後編に続く)

積極性による大きな変化 -- 第4回新潟国際アニメーション映画祭(後編)

 今年2月開催の第4回新潟国際アニメーション映画祭について、前編に引き続き、上映された長編コンペティション作品を中心に書いていきたい。
 今年の新潟フェス長編部門には世界31の国と地域から49作品の応募があった。前回の第3回大会での69作品には及ばないものの、第2回大会の49作品と同数で、リニュアル後としては良好な成果だったのではないか。
 一方、新設のIndie Box部門では、59の国と地域から225作品の応募があった。
 ちなみに、東京アニメアワードフェスティバル2026での長編応募数は26の国と地域から34作品、昨年開催の第12回新千歳空港国際アニメーション映画祭では28の国と地域から63作品、昨年12月に第1回が開催された「あいち・なごやインターナショナル・アニメーション・フィルム・フェスティバル」では29カ国から45作品だった。(映画祭によってカウント方法が異なる可能性あり)
 さらに注目すべきなのは、これら応募作の中での日本作品の本数である。東京では6本、新千歳では5本、新潟では2本だった。世界に冠たる長編アニメ大国日本からの応募数としては非常に少ない印象を受けるが、これは作品のプロモーションその他のプロセスの中で、一般公開前の映画祭での上映を良しとしない考え方が根強いことが一因である。
 ともかく今年の新潟では、長編49作品が選考審査(委員4名)で7本まで絞られて本審査(委員3名)に進み、映画祭で上映された。
 
 長編部門グランプリを受賞したのは、『アラーの神にはいわれもない』(Z・ナジャール監督、ベルギー・カナダ・フランス・ルクセンブルク)。
 ストーリーは、西アフリカ・ギニアの孤児の少年ビラヒマが主人公。彼は国境を越えてリベリアに定住している叔母を探すための旅にでる。家族を殺された彼には、他に頼るものはない。しかし旅の途中、武装集団の一員の少年兵に出会い、運命が変わる。半ば強制的に少年兵になった主人公は、どうやって肉親がいる地を目指すのだろうか。
 内戦、民族紛争、殺戮と無慈悲な生存戦略が渦巻く世界を容赦なく描いた作品で、主人公が小さな子どもたちであるところから、作品世界の残酷さが露わになる。
 タイトルは、人間にとってアラーの神の存在は、義務ではなく、出会いから生まれるもの、という意味だという。にもかかわらず、宗教的な傲慢さ、不自由さが世界に蔓延している現状を追求したのが本作で、実写とは異なるリアリティの獲得に成功している。
 現在はフランスで活動する監督の、コンペ上映前に紹介されたビデオメッセージによれば、「原作の小説に感銘を受けた。私のルーツはレバノン。家族と話をすると、レバノン内戦に話題が及ぶ。この映画の内容には、いろいろな場面で葛藤を感じることになるだろう」とのことだった。
 
 審査員賞を受賞したのは、『ニムエンダジュ』(T・アナヤ監督、ブラジル・ペルー)。
 戦前期からブラジル奥地の先住民を研究するため、40年にわたって現地に住み調査を続けたドイツ人研究者が主人公の、ドキュメンタリータッチの作品である。
 入植者によって先住民が追い出され、迫害を受けてきた歴史と現状は、時折紹介される。それを、先住民と共に住み調査研究する科学者を通じて、という描き方が興味深かった。主人公が収集した資料は膨大で、ドイツとスウェーデンの博物館のほか、ブラジルの博物館にも収蔵されていたが、これは近年の火災で焼失したという。
 そのことを含めて、本作の結末は悲劇的である。異なる民族との融和、共存、そして主人公の科学者にとっての「二つの世界」の行き来など、人類を構成する一人の人間の存在意義を問うた、長編らしい作品だった。
 
 実は、長編コンペティション7作のうち、受賞作発表前の時点で、私が「見るべき作品」だと感じたのは、この2作だけだった。あとの5作の出来にはバラつきがあり、なかには、なぜこの作品がコンペインしたのかと問いたくなるものもあった。もっとも、これは長編、短編を問わず、国際映画祭では少なからず感じるところである。
 ともかく、『アラーの神にはいわれもない』『ニムエンダジュ』の2作を受賞作にできた第4回新潟フェスは、長編アニメーション映画祭としての価値を次回に繋ぐことができたと思う。
 
 コンペティション以外のプログラムはまったく見る余裕がなかったので、紹介のみにとどめるが、毎回設定されているレトロスペクティブ部門では手塚治虫特集。長編アニメ映画祭らしく、アニメラマ第1作の『千夜一夜物語』(1969)と、日本テレビ系「24時間テレビ」で放送されたテレビスペシャルとしての長編シリーズから『海底超特急マリン・エクスプレス』(1979)が上映されたのは妥当なプログラム構成だった。
 これも毎回設定されている「世界の潮流」部門では、フィリピン、スペインなどの長編4本が上映された。
 世界の潮流部門は、前回(第3回大会)ではいくつかのカテゴリを設定してはいたが、11本もの長編が上映された。この違いをみてもわかるように、総じて、今回の新潟では、プログラム構成がだいぶ「落ち着いた」ように感じた。
 確かに映画祭は、複数の会場で同時に、異なるプログラムを数多く上映するのが常である。それによって、より多くの集客を目指し、観客の多様な訴求に応える。しかし、それにも限度があるように思う。
 プログラムをどういう方向性で構成するかという点でいえば、たとえば子ども向けのプログラムが少なく、逆に旧来からのアニメファンを意識したプログラムが目立つのが新潟だった。
 他のアニメーション映画祭では、子ども向け作品の特集、コンペティションでは子ども向け作品であることがわかるマーキングをつける、また子ども向けのワークショップを開催しているところもある。子どもは、次代のアニメにとっての大切な観客である。
 今回、ある上映会場で、たまたま私の隣に座った、1歳くらいの子どもを膝に抱いたお母さんに、私はいろいろ尋ねてみた。お母さんは、
「子どもを連れているので、日本の作品を見ようと。手塚アニメにも行きたかったが、時間の関係できょうになった」
 というその上映作品は、長編コンペティション部門の『トリツカレ男』(高橋渉監督、日本、98分)だった。
 お母さんはさらに、
「この映画祭は、前回から来ている。地元ではあまり知られていないんじゃないか。もっとも、他の(新潟で開催される)イベントも含めて、地元の人はあまり意識していないとは思うけれども」
 と続けた。
 
 国際映画祭は、3回くらいの開催を経て、その地歩が確立される傾向がある。しかし新潟フェスは、今回の第4回で、新たな映画祭に生まれ変わったようにも思った。
 長編部門に加え、Indie Box部門を新設した積極性、そしてプログラム構成の落ち着きを感じた新潟国際アニメーション映画祭は、来年の開催も決まっている。
 運営は毎回本当に大変だと思うが、その労をねぎらいつつ、私は引き続き「観客席から見た風景」にもとづいて、新潟映画祭を考えていきたい。

積極性による大きな変化 -- 第4回新潟国際アニメーション映画祭(前編)

 毎年早春に開催されてきた新潟国際アニメーション映画祭、今年の第4回は開催時期が少し前倒しになって、2月20日から25日までの6日間で開催された。
 私は初回から参加しているが、今年は他の仕事との重なりの関係で、23日から25日までの3日間という限られた日程で現地に入った。
 いつもの通り、コンペティション作品はすべて見るのが目標だったが、日程の関係で、長編部門にノミネートされた7本はすべて見たが、新しいコンペ・カテゴリーの「Indie Box」部門のノミネート作10本はほとんど見れなかった。ただ、最終日の受賞作上映で、Indie Box部門グランプリの『オートカー』だけは見ることができた。
 つまり、新潟は今回から、コンペティションが大きく変わったのである。
 
 2023年に第1回が開催された新潟国際アニメーション映画祭は、長編アニメ専門の映画祭という点が非常に特徴的で、コンペティション部門も長編オンリーという、世界的にも珍しいものだった。
 ただ、第2回、第3回と開催を重ねる中で、多すぎる上映作品数、中にはなぜこのプログラムがこの映画祭で? と感じるような傾向を呈してきた。
 上映作品の選定や集客を考えれば、企画陣にはさまざまな苦労があることは理解できる。
 しかし、運営側からの発表内容に関係なく、あくまで「観客席からみた風景」で論評する私などからすれば、新潟の行く末を案じる心境にもなった。
 結局、第4回映画祭では、運営組織が変わり、長編部門コンペティションは残しながらも、Indie Box部門という新たなコンペティションが加わり、「長編専門」の映画祭ではなくなった。
 新設のIndie Box部門は、ユニークである。映画祭が公表した、この部門の作品募集規約からそのまま引用すると「15分以上40分未満(エンドクレジットを含むトータル時間数)のストーリー性のあるアニメーション作品を対象とします。シリーズ・エピソードも対象とします」とある。
 1960年に第1回が開催されたフランス・アヌシー国際アニメーション映画祭以来、アニメーションの国際映画祭は短編作品に限った公募が成されてきた。やがて長編も加わるようになり、日本でも、東京アニメアワードフェスティバルが2014年から長編部門を設置し、新千歳空港国際アニメーション映画祭でも2018年の第5回大会から長編部門が加わった。
 ここでポイントになるのが、そもそも何分以内の作品が短編で、何分以上の作品が長編か、ということである。
 多くの映画祭では、「短編」は上映時間30分以内、「長編」にはバラつきはあるが、40分以上が多いように思う。したがって、上映時間30~40分の作品は、コンペティションから除外されてしまうわけである。(新千歳映画祭での短編は「30分未満」、長編は「30分以上」になっている)
 新潟は、ここに注目した。短編として一番多い10分前後、もしくはそれ未満の作品を対象外とし、15分以上40分未満という枠組みで部門を設定したのである。
 新機軸とまでは言えないものの、同じく募集規約には「ストーリー性のある作品」「シリーズ・エピソードも対象」とあることから、日本のテレビアニメの1エピソードを応募することも可能なのだ。この部門での応募作の選考、そして審査によって、これまでにない価値観が創造される可能性がある。
 たいへん残念なことに、私自身が今年のIndie Box部門作品をほとんど見れなかったので、その成果についてここで論じることはできない。
 それでもグランプリを受賞した『オートカー(Autokar)』(S・シュキウォンツ監督、ベルギー・フランス、17分)は、ポーランドから移住先のベルギーへ向かう一人旅の少女が長距離バスの中で経験した幻想的で怪奇的、そして不条理にも見える世界を描いた優れた作品だった。
 来年の開催も決定しているので、次回はこのIndie Box部門を見逃さないようにしたい。
 今年の長編部門コンペティションでの各作品、そして映画祭全体の印象については、後編で記したい。
後編に続く)

細田守監督『果てしなきスカーレット』を考える

 細田守監督の最新作『果てしなきスカーレット』の上映は、東京都内のTOHOシネマズでもきょうが最終日である。
 本作は、公開直後から賛否が入り乱れ、というよりは酷評が目立つ結果になった。悪い評価をつけたその理由は「細田監督らしくない!」という一言で説明がつくのだろうと考えながら私は見たが、やはりそうだったので、このテの評価に一喜一憂する必要はない。
 本作ではむしろ、頑迷なほどの和平主義者として登場しながら、結局は武器を手にする看護師・聖をどう受け入れるかで、本作の観客は選別される。そういう意味で、聖は本作でもっとも注目すべきキャラクターだった。
 ただ、終幕の少し手前まで、ヨーロッパ的な説話性をたたえ、山々の先にあるとされる「見果てぬ場所」を目指す、すなわち「約束の地」を目指すとも解される物語進行をとりながらも、結局主人公は元の場所に戻ってしまった。キリスト教的な流れから、いきなり日本的な「一周巡る」形になったのである。
 20年ほど前、西欧でも紹介された宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』について、現地の知識人から、主人公ナウシカギリシャ悲劇のヒロイン版なのか、という趣旨の質問を受けた経験が、私にはある。
 とりわけヨーロッパのような、宗教が人々の精神や生活の中心にあり、異民族が常に接して幾度となく国境線が変わってきた地では、物語や主人公に対して堅牢な型がある。『ナウシカ』に対してギリシャ悲劇を引用することなども、その一端である。
 また、表現上の制約が厳しかった時期のヨーロッパでは、空想上の動物まで含めたキャラクターにモノをいわせる寓話が発達してきた。近世以前から、動物を「可愛いもの」として表現してきた伝統のほうが強い日本とは異なる。
 どんなにアニメがグローバルになろうとも、日本人作家は、強い意識下で日本的価値観を保持し、物語を構成すべきだと、私は考える。
 『果てしなきスカーレット』の全編から感じ取られる「現代の観客に見せるべき物語は何か」という苦悩は、一人ひとりの観客がどう受け入れたかがリアリティであって、制作者の心情をおもんぱかる必要はない。
 そして、やはり全編を通じて、小さな見どころは頻発するが、結局物語全般の起伏に乏しい構成になったのが、私は気がかりだった。
 細田作品の過去作で言えば、たとえば『おおかみこどもの雨と雪』のような、ほのぼの感が随所にありながらも、作品全体としては人生そのものの意味を問いかけるような、壮大な物語があったことを思い出す。
 これまでのパターンからすると、細田守監督の次回作は3年後ということになるのだろうか。もし、細田監督が「物語る」ことに強いこだわりがあるのなら、既存の原作を一つ選んで、それをアニメとして語りなおすことへの再挑戦を、私は期待したい。

原口正宏・編著「ゲゲゲのアニメ 『鬼太郎』60年史と70人の言霊」

インスタでも書いたのだが、このブログはもともとアニメ関連図書を紹介する目的のサイトなので、こちらでも書いておきたい。


私と同じアニメーション史研究家で、データ原口こと原口正宏さん編著による「ゲゲゲのアニメ 『鬼太郎』60年史と70人の言霊」(徳間書店)をご恵贈いただいた。
繰り返しテレビアニメとして制作された『ゲゲゲの鬼太郎』の制作陣(企画から脚本、演出、作画、美術など)や声優陣、総計約70人もの関係者への膨大なインタビュー集で、400ページを超える。冒頭では、かつて私が編纂に関わった「東映アニメーション50年史」(2006年)も引用いただいた。
私と同じく、などと書くとおこがましいが、原口さんは、彼自身の独特の考え方と方法で、歴史研究での第一次資料を非常に大切にする。アニメ作品に関する一次資料の調査、やはり一次資料となり得る関係者へのインタビューをひたすら積み重ねる稀有な研究者で、かつ今でも数少ないアニメスタジオ史研究の第一人者でもある。
近年、社会学、哲学、文学など周辺領域からアニメ研究を行い、ときにその取り上げ方や解釈に疑問を感じることもある中、原口さん仕事はひときわ存在感がある。
その原口さんでなければ成立し得ない著作で、心から敬意と謝意を表したい。

第12回新千歳空港国際アニメーション映画祭(後編)

前編に続き、今年の新千歳空港国際アニメーション映画祭の印象について書く。
新千歳映画祭の特徴の一つが、早い時期から、いわゆる商業系作品とアート系作品とを分けることなくプログラムに組み込んできた点である。コンペティション作品だけではなく、数多く上映される特別プログラムに、その特徴がよく表れている。
今回でいうと、岩井澤健治監督『ひゃくえむ。』が上映され、監督と小嶋慶祐(総作画監督)によるメイキングのトークが催された。
『ひゃくえむ。』は劇場公開時に見たが、事前の期待に違わぬ素晴らしい作品だった。
ロトスコープという、あらかじめ実写で撮った映像をもとにした作画法が注目されがちだが、本作はやはり作品全体の構成に注目すべきである。伝統的な日本文化と精神性、そこに同時代を生きる我々の感性とを織り交ぜることで、現代の日本像を浮かび上がらせるための、さまざまな工夫があったように思う。
たとえばラストシーンは、本作のようなストーリーをもつ作品としては、やや意外な作りになっていた。
伝統的な日本文化の構造、精神性として、「A is B」ではなく「A as B」、つまり「AはB」という論理性ではなく「AをBとして」という予感、想像力、あるいはズレを喚起させるような作りがあるといわれる。『ひゃくえむ。』のラストシーンに接した際、私はそのことを思い出した。
また、『ひゃくえむ。』で随所にみられる作画やキャラクターの演技の「引き算」の結果が、「AをBとして」感受し、観客それぞれにとっての『ひゃくえむ。』が完成する道筋を照らしている。
キャラクターの細やかな、しかし思わせぶりな演技がもてはやされ、それを芸としているかのようなクリエイターが少なくない中、『ひゃくえむ。』は稀有な作品だった。
そしてもう一つが、100メートル競走という、誰もがやったことのある競技をベースにしながら、キャラクターの心情と数値的(年齢)な成長、ライバルの存在、コミュニティの変化によって、「個」はどこまで翻弄されるものなのか、そして日常を紡いでいなかければならないのかを問いかけたところである。
『ひゃくえむ。』がもつダイナミズムは、語り出すとキリがないので、ここから先は別の機会に委ねようと思うが、そのダイナミズムという点でいえば、『ひゃくえむ。』より一足先に公開された長編『劇場版「鬼滅の刃」無限城編』第一章と比較すれば、新しい目線が形成されるかもしれない。
 
『鬼滅』は公開時から観客動員がきわめて好調で、それは現在までのロングランにつながっている。しかしその中身(ストーリーやキャラクター造形)は、一言でいえば「総花的」で、一瞬の、しかし次々に現れる絢爛美麗な作画に観客は眼を奪われる。したがって、原作やテレビシリーズ、これまでの劇場版などを全く見たことがない観客であっても、印象に残る作りになっている。別の言い方をすれば、155分という長尺でありながら、最近珍しくない上映中にトイレに行って戻ってくる観客も、作品鑑賞にさほど困らない作り、ということである。「一瞬のシーン」で感動でき、またキャラクターの「力強いワンフレーズのセリフ」が印象に残るからである。
これが今回の『鬼滅』のダイナミズムといえばそうなのかもしれないが、総花的にみえる構成は、スキマを読み解くことで作品を自身のものにする自由度を低減してしまっているのではないか。
したがって、私が知る限り、本作の中身について深く掘り下げ、考察する論評は少なかったように思う。
その一方で、今回の『鬼滅』の興行成績は伸び続け、国内最高値を更新し、海外興行も好調で、ハリウッド映画のように国外興行が国内興行の数値より高くなった。これをもって、『鬼滅』の世界戦略は成功し、日本アニメもハリウッドに比肩するようになったという、作品の外側の事象が話題の中心を占めるようになった。
 
最後に、今回の新千歳のことでもう一つ指摘しておきたいこと、それは映写ミスである。
具体的には、ある長編コンペ作品の上映会場で、本来上映するはずの長編とは別の長編の上映が始まったのである。私は「あれ、これは別の作品だな」と気づいたが、すでにホールの明かりは落ちて上映が始まっているので、他の観客を含め、何も言わずにスクリーンを見つめていた。
しかし、いつまでたっても誤上映が続く。映写室は無人なのか? と思ったところで、一人の人物(誤って上映されている作品の制作関係者?)が座席を立ち、暗がりの中を走ってホール外に出ていった。その数分後にようやく上映が止まり、ホールの照明が入った。ここまで10分近く、観客は本来の上映作品ではない作品の上映に付き合わされたことになる。
ホール内に映画祭運営者が入って、謝罪の言葉と、これから本来作品を上映するが、そのことで上映後の予定に影響する等で上映終了前に中座しなければならない人にはチケット代を返還する、といった説明があった。
加えてもう1件、ある短編コンペティションでも、最初の上映作品で、音声は出ているが映像が出ない、というトラブルがあり、これも上映しなおすという事態があった。
今のところ、これらのトラブルに関して、映画祭HP(NEWS一覧)などでの公表や説明はなく、(少なくとも)2件発生した上映トラブルの原因が人為的なものか機材的なものかはわからない。
しかし、私が図らずも立ち会うことになったその2件のトラブルは、いずれも公式コンペティション上映時のものであり、絶対に避けたい事態である。
私が気づいていないところで対応があったのならばよいのだが、もしそうでないのであれば、映画祭側には、できれば、トラブルの原因、発生時の対応とその適切性、そして今後の対策の3点について、言及してほしかった。