アニメーションの美術館展示とは :国立新美術館「新海誠展」

 フェイスブックで先に書いたのだが、少し加筆しつつ、こちらでも。
 国立新美術館での「新海誠展」、昨日、すべりこみで見てきた。美術館でのアニメーション展示の難しさは、やはり感じたが、いろいろな制約があるだろう中で、比較的要点を絞った内容にまとまっていたように思う。
 
 いつごろからか、美術館での「アニメーション」展が行われ、しかもそこに大量の原画、レイアウト、背景画などが展示される方法が一般的になった。
 おそらく、2006年の「ディズニー・アート展」、2008年の「スタジオジブリ レイアウト展」あたりのインパクトが、その流れを確固たるものにしたと思われる。
 一方で、アニメーションは上映(放映)される映像が完成形であり、そのプロセスに至る「完成形ではない」原画やレイアウトの展示が、美術館でのアニメーション展示の主流になってよいものか、という声を私はアニメ制作者の意見として聞いたことがある。このあたりが、アニメーション展示の難しさである。
 
 それらを前提として、今回の新海誠展での印象をいくつか書くと、まず、展示の順路。入場口と退場口にそれぞれ新海作品のダイジェスト映像を配した演出は面白かったが、それ以外は、新海監督の系譜を順にたどるように、『ほしのこえ』から『君の名は。』に関連する展示が並んでいた。
 それよりも、たとえば最初の展示室で新海監督の独自性をクローズアップして紹介し、あらためて第1作『ほしのこえ』からたどっていく、という形にしてはどうだったか。そのほうが、なぜ新海誠というアニメ監督がここまで注目されたのかを端的に説明することができるように思う。つまり、系譜をたどるのではなく、テーマを定めてたどるのである。
 きわめて意地悪な書き方になるが、現在の新海誠監督は、「しょせん1本が大当たりしたところ」「実質的なファン層は、まだまだマニアックの域を出ない」という捉え方を排除すべきではない。
 
 今回展示を見て、あらためて新海監督の系譜にはいくつかの転換点があることを認識した。これは、画家や小説家を含めて、作家という立場の人にはしばしばある。
 一方で、彼が修正原画やレイアウト用紙に小さな字でびっしり書き込んでいる内容に頻発する「L/O」「BG」などの意味は、一般の鑑賞者にはすぐには通じないと思うが、それはそれで面白いと思える展示になっていたかどうか。
 そして、これは知人の研究者から指摘されて私も同じ感想をもったのだが、多くのファンが「新海節」として認識しているであろう緻密極まる背景画の展示が、ロケハンの写真と実際の画面との比較など、わかりやすくはあったが、背景画それ自体の展示としては、実にあっさりしていた。
 そんなふうに考えていったときに、ではアニメーションはどのような美術館展示がありうるのか、という点に思いが至る。
 
 私は基本的に、フィルムという完成形に至る前の「調理段階」の原画やレイアウトをそのまま見せるやり方は、アニメーション展示としてベストではないと思っている。
 しかし今回の新海誠展の原画やレイアウトの見せ方には、今後の美術館におけるアニメーション展示の在りようを議論するヒントがあったように思う。それが何かは、また別の機会に。