これぞ「映画」の真骨頂 :細田守監督『未来のミライ』

 このブログの趣旨からすると、ちゃんと古今東西のアニメ文献のことを、しかももっと頻繁に書かなければならないのだが、やっぱりこれは書かずにはいられない、細田守監督の最新作『未来のミライ
 公開初日の夕刻からの上映を見た。それまでにはレビューや監督インタビューの類いは一切読まなかった。
 そして見ている途上、何度も不愉快になった。とにかく主人公の子どもがうるさい。物語の時間軸がどうなっているのか混乱するし、なんのために出てきたのかわからないキャラクターがあちらこちらに。その他、いろいろ。
 
 もともと細田守監督というのは、特に映画の構造的なところで、実験的なことをやろうとする志向の強い監督である。観客の予定調和を意識した仕事を嫌うといったほうがよいかもしれない。
 つまり、本作をみて「不愉快だ」と思った時点で、すでに細田監督の術中にはまっているのであって、私は見終わって映画館を出てから、不愉快に思った数々のシーンを噛みしめることになり、結果的にそうした雑念(不愉快さ)は消滅していた。
 
 それで思い出したのが、もう20年以上も前、宮崎駿監督の『もののけ姫』(1997)が公開されたときのことである。少なくとも私の周りの宮崎アニメファンの中では、『もののけ姫』はつまらなかった、失敗作だ、という評価が多数を占めた。実は私もそう思った。
 しかし、半年以上のロングランを経て、S・スピルバーグ監督の『E.T.』(1982)が樹立した日本国内での興行収入記録を大きく超えて、193億円という誰も予想できなかった成績をあげた。なぜそんな結果になったのか?
 
 映画の役割とは何かを、もう一度考えてみるべきだと思う。映画は観客のためのものだが、観客のため「だけ」のものではない。もちろん、あなたのため「だけ」のものではない。
 そういう意味で、アニメに関する発言者・ライターは、あまり観客に気を遣うような文章を書くのは留意すべきだと思う。
 
 おそらく『未来のミライ』は、宮崎監督の『もののけ姫』と同じく、細田監督の系譜の中で、それ「以前/以後」で語られる作品になると思う。
 私は一応研究者なので、この封切中の諸現象を見極め、細田監督の次回作公開に備えたいと思う。