独自の「アニメーション観」を育てたい :東京アニメアワードフェスティバル2018

 http://animefestival.jp/ja/

 恒例の東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)が、一昨日無事終了した。
 私は長編コンペティション部門の一次選考委員を務めたが、TAAFのコンペは今回が事実上初参加なので、過去の傾向とは比較できないという前提ながら、私が審査に関わらなかった短編コンペについて、ここで書いておきたい。
 
 短編コンペは35本。全体として楽しげな、「ほほえましい」作品が多い、という感じである。したがって安心して見られるのだが、正直なところ刺激に乏しく、物足りないと感じたのも事実である。どこかで見たような作品が多い、とも言える。
 エントリの時点でどういう作品が集まったのかにもよる。今年は、短編・長編で合計731本、私が審査した長編は合計14本だから、短編は717本ということになろうか。
 この膨大な作品を審査した一次選考委員の労を多としなければならないが、選び抜かれたはずの35本が、こうも「普通」の作品で占められてしまうと、映画祭としての発信力がいかほどのものかと心配になる。
 私が選考委員だったら、ノミネート35作のうち、半分近くは落選させたかもしれない。
 
 まったく逆の印象をもったのが、昨年の第4回新千歳空港国際アニメーション映画祭である。次のステージのアニメーションは何かをしっかり見据え、それがどう評価されるのかを気にせず(つまりは批判を恐れずに)コンペティション作品群がアグレッシブに選出・構成され、映画祭としての発信力を強く意識しているのである。結果的に、作品上映と観客との間に、ある種の緊張感がみなぎることになる。
 
 今年は長編の審査にかかわったので、その場でTAAFがどのような作品を好み、選考しようとしているかはある程度理解できた。それは、ストーリーがはっきりしていて、あくまでエンタテインメントとして楽しめる作品を好む映画祭、というものである。この「好み」は、何であってもよい。それが、星の数ほどある映画祭の個性、発信力につながるからである。
 しかし、刺激に乏しいというか、きれいにまとまっている、安心して見られる作品を集めるのも問題で、ストーリーものだろうがエンタメだろうが、何らかの「新しさ」「驚き」をもった作品を選び、そこにTAAFならではのアニメーション観が欲しい。
 
 実は、長編の一次選考の場で、テクニックの良し悪しを重視しているのがTAAFのもう一つの特徴だと気がついた。それはつまり、テクニックが高度だから評価する、デジタル時代の現代にあえてアナログ技術にこだわっているから評価する、ということだが、これはほどほどにしたほうがよい。
 20年以上前のフル3DCGなら別だが、テクニックは文字通り手段であって目的ではない。アニメーションという映像言語を使って何を表現したいのかが大切である。
 実際、私が選考委員として参加した長編部門では、選考会議の場で、ある作品をノミネート4作品に入れるか否か、意見が分かれた。絵を動かす技術が稚拙に見えたのがその原因だと思うが、しかし私ともう一人の委員が強く推し、結果ノミネート4作品に入ったその作品『Have A Nice Day』は、本選で優秀賞を受賞した。
 もちろん、確かな技術力があってこそ確かな表現は可能となるが、テクニックを「見せるため」の作品は、表現としてのアニメーションの未来に、意外なほど影響を与えない。それに、テクニックの良し悪しを重視するなら、どの映画祭でも似たような評価軸を使うことになってしまう。
 
 最後にもう一言だけ。
 さきほど私は、私が短編コンペの選考委員だったら半分近くは落選させるかも、と書いた。逆に言えば、半分以上は同じく入選させている、ということでもある。見所のある、また現代ならではの題材に挑戦した作品も少なくなかった。そこはちゃんと評価したい。
 誰もが楽しめる、エンタテインメントとしてのアニメーションを育てていこうというのがTAAFなのだとしたら、それでよい。しかしその前提としての独自のアニメーション観を明確にし、牽引力を大きくするのは、残された課題である。
 今年の短編の出品数が717本だったが、大規模な国際アニメーション映画祭のコンペで、5回目の開催にしてこの「717本」というのは、実はかなり少ないことも意識すべきである。