アニメ批評のエクソダス

 
 ●季報「唯物論研究」第104号 特集「アニメ批評のエクソダス
  発 行: 季報「唯物論研究」刊行会
  刊行年: 2008年
  定 価: 1200円
 
 
 
 今、ちまたで話題沸騰中の本誌。
 まだすべてのテキストを熟読していないので、総括的な発言にとどめようと思うが、熟読した上で、あとでまたエントリを変えて加筆するかもしれない。
 
 ここ1〜2年、「日本にはアニメ批評がない」という論調が、また増えてきた。
 よく知られているように、『エヴァ』の頃にもそうした論調が脚光を浴びたが、その後落ち着いていた感があった。そして今、再び「アニメ批評の不在」を嘆く声が、一つの潮流を形成していると見ていいだろう。
 
 ここで言われる「アニメ批評の不在」が実態を反映したものか、またその実態を覆すために彼らの主張が有効なものかはまだ不透明だが、基本的には、こうした論調は歓迎したい。私自身、歴史を掘り起こす研究者という立場であり、いわゆる批評に加担する立場ではないため、一読者として、その期待感は大きい。
 ただし、肝心なのは、「次」である。
 その視点にたって、あらためて本誌を読むと、「次」を導くための戦略が、「あくまで彼ら自身で「次」を形成するのか」、または「彼らに続く人材やムーブメントを期待しているのか」が、あいまいである。 
 「そのどちらも大事」と言われるかも知れないが、これは戦略としては不利。
 結果として、全体的には、「アニメ批評」という難攻不落の城を前にして、意気軒昂に勝鬨を声を上げつつ、そこを突破できずに渦巻いている、という印象を拭いきれない。
 
 それから、「アニメ批評の不在」を嘆いている深層を見てみると、ようするに、「彼らが望む筆致の「批評」が少ない」、もっとはっきり言えば、「彼らが好きな作品を褒めてくれる批評が少ない」ことに起因し、その状況を批判しているという姿勢が見えなくもない。
 本誌にしても、昨年あたりから同じ趣旨で書かれている文章にしても、たとえば競って『らき☆すた』を取り上げているところなどに、その傾向がある。
 
 そうではなくて、今、「アニメ批評の不在」を嘆くのだとすれば、アニメ批評の方法論の不確定性だろう。これは、アニメ批評の媒体が少ないこと以上に、深刻な問題である。
 あれが悪い、この人の筆致はダメ、というのはもうどーでもいいから、たとえば戦前からの映画批評の歴史を学び、それを再構成し、そこにこれまで成された「アニメ批評」をオーバーラップするだけでも、いったいアニメ批評の「何が不在」なのかが浮かび上がり、その不在部分を補填するための方法論を語るに値するようになるだろう。
 その上で、具体的な作品や作家をもとにした、新たな方法論でのアニメ批評を発表し、そこでもう一度、「アニメ批評の不在」を提言すれば、難攻不落の城を陥落させるための戦略と具体的な戦術が見えてくるのではないだろうか。
 
追記:
 「健全なアニメ批評が良質なアニメ作品を生む」という考え方があるとすれば、私個人としては懐疑的。良質な作品とは、あくまでも観客が選別するものであり、批評家が選別するものではない。