ひろしま、新千歳、東京、そして新潟 ーー 第1回新潟国際アニメーション映画祭を観覧して(後編)

 第1回新潟国際アニメーション映画祭について、長々と前編中編と書いてきたが、最後のこの後編では、大会中に感じた課題、そして次回に向けての提言について書いていきたい。

 

 まず、どうしても触れなければならないのは、コンペティションの観客の少なさである。大友克洋などレジェンドたちのレトロスペクティブ(回顧上映)や、人気クリエイターのトーク付上映などでは違ったようだが、コンペティション、特に午前中の上映では20~30人程度しか入っていない回もあり、空席ばかりが目立つ風景は残念だった。

 これを広報の問題というのは、少し違うように思う。アルジェリアチェコ、フランスなど馴染みの薄い地域の長編アニメの上映で、一般の観客が料金を払って入場し席を埋めるのは、どうやっても難しい。

 新千歳や広島アニシズでは、こうした課題に対応しようとしたのだろうか、コンペティションを中心としながら、商業的に成功した作品や監督を招いて上映するプログラムを盛り込む例が見られる。複数のスクリーンや会場を使って行われる映画祭では比較的よくある形で、新潟もその方法を踏襲した。

 しかしほとんどの場合、観客は満席のプログラムが終わると家路についてしまう。隣の会場で上映しているマイナーなプログラムへ足を向けようとする姿はなく、「ついでに見てもらってアート系作品への理解と集客を」という主催者側の意図は、少なくとも効果的な形では実現できていない。

 つまり、新潟を含めて芸術的なアニメーションの上映会場を満席にしようとするのは、そもそも無理があると理解しなければならない。

 これを変えようとすれば、アート系のコンペティション作品上映と商業系の人気作品上映との2作を1枚で鑑賞できるチケットを販売して、人気作を目的にした観客が「せっかく入場料の一部を払ったのだから、あっちも入ってみようか」と考えるような、やや強引な方法が必要ではないかとも考える。

 あとは、他の映画祭での実施例があったが、地元の小学生などを招待する方法もある。新潟はアニメ関連の大学や専門学校もあるのだから、こうした教育機関との連携をもっと強くして、学生たちを会場に招くことも考えられる。

 ただし、「アート系作品の上映で席を埋める」を実現できていた前例はある。2020年で終了した旧・広島フェスである。毎晩のコンペティションでは、約1200人収容の大ホールの7~8割が埋まることもあった。広島フェスは招待客も多い点には留意が必要だが、こうした実績が過去にあったことには謙虚でありたい。

 

 集客については、もう一つの難問題にも直結する。それは、地元での知名度の向上である。

 アニメーションの映画祭には、強固な常連客がいる。実際、昨年から今年にかけてひろしま、新千歳、東京のいずれでも見かけた常連客と、私は今回の新潟でも何人かすれ違った。私は半ば職業的な立場だが、同じくこの4つの映画祭を巡礼したから、相手からすれば「また津堅も来ている」と思われたに違いない。

 地元での知名度向上は、広報で解決できる度合いは高いかもしれない。参考までに述べると、私は映画祭の期間中、毎晩どこかの飲食店やバーに出入りして、そこで店主や地元客に話を聞いた。すると、「古町でアニメをやっているらしい」くらいであれば、半数程度の人たちが認識していた。その多くが「CМで知った」、1人は「ポスターがたくさん貼ってあったから」であった。

 観客の属性や広報の効果を確認するためのアンケートを場内で配布し、回収するのもよかっただろう。

 

 そして、国際映画祭のメインプログラムであるコンペティションである。新潟が今回のように10本程度の長編アニメをコンペ作にするのなら、やはり応募作数を今回の21作から増やしたい。

 アニメーションの世界では、映画祭やコンペを必要としない制作者も多く、世界に冠たる長編アニメ大国の日本であっても、応募作を増やすのは容易ではない。

 しかし、この点にこそ映画祭の広報の意義や価値があるのであって、さまざま工夫と知恵を絞りながら、応募作数を増やすことに努めていただきたい。

 応募作とコンペ作との関係には、もう一つ、映画祭の「個性」に直結する重要なポイントがある。それは、応募作からコンペ作を選出する一次選考委員の位置づけである。

 各地の映画祭を見渡すと、本選であるコンペティションの審査委員は毎回替わるのが通例である。一方の一次選考委員は、毎回替わるか、固定しているかのどちらかの方針がとられている。東京のTAAFは毎回差し替え、新千歳は固定している。広島の旧フェスは毎回差し替えられていたが、新千歳を踏襲するような運営方針をとった後継のアニシズでは選考委員は固定する方針で、それが可能な選考委員を新たに選んだ。

 私自身、30年にわたって見てきた広島フェスと後継のアニシズとが啞然とするほど変わったのは、この選考委員に関する方針の違いだからだと気がついた。それほど選考審査は、映画祭の個性に直結する。

 選考審査委員の固定は、映画祭の「質」を確保するために必要だ、という意見がある。その考えに、私は賛成である。一方で、毎回変わることで、選考する側にも観客の側にもある種の緊張感が生まれ、映画祭の楽しみが倍加するという印象を、私は抱いている。

 新潟でどちらの方針がとられるのか、次回以降を楽しみにしている。

 

 公開上映するコンペ作はどんな作品か、そしてその中からどんな基準でグランプリほか受賞作を決めるかは、映画祭の個性である。

 それ以外にも、芸術としてのアニメーションか商品としてのアニメーションかという、永遠の課題のような区分もある。その両立を目指すのが一つの理想であり、新潟もそれを意識しているように見えたが、しかしこの両立は想像以上に難しい。商業性の重視をオプションとするなら、新潟がマーケット形成の場となるかにも注目しなければならない。

 新しく始まった国際映画祭がその地歩を固め、映画祭としての個性を確立するまでには3~4回の開催が必要だというのが定説である。

 しかしまずは、コンペティションの充実を目指し、そのための試行と実践を繰り返して、新潟が長編アニメの一大発信地となることを期待したい。

(おわり)

ひろしま、新千歳、東京、そして新潟 ーー 第1回新潟国際アニメーション映画祭を観覧して(中編)

 前編で述べたように、コンペティションが行われるアニメーション映画祭では、公募対象を短編に加えて長編を扱うかどうかが一つの分岐点である。現在日本で開催されている新千歳、東京、ひろしまの3つはいずれも長編を対象に入れている。

 次に、作品のタイプによるカテゴリーの設定である。東京は「短編」「長編」の2区分のみだが、新千歳とひろしまはそれぞれ独自のカテゴリーをつくり、それごとに受賞作を選出して、全体の最高賞としてのグランプリがある。ひろしまは短編と長編とを分けずに審査している。

 前編を含めてここまで述べてきて、「テレビアニメはどうなっているの?」という疑問を抱かれた読者もおられるだろう。海外のアニメーション映画祭ではテレビアニメを一つのカテゴリーとして公募し審査している例もあるが、日本では現在のところそれはない。

 形式的にいえば、短編は通常「上映時間30分以内」だから、おおむね1話20数分のテレビアニメなら1話単位で短編部門に応募するのは可能で、実際広島フェスでは過去にテレビアニメ1話がコンペティションに入った例もあった。

 こうしたことから、長編アニメ専門でコンペティションを行う新潟フェスは、日本はもちろん世界的にも例がない、非常に珍しく、意義深い映画祭である。

 

 そんな位置づけの新潟フェスだが、今回の第1回大会で私は、コンペティションを中心に観覧し、数多く組まれた他のプログラム(大友克洋新海誠らの特集上映、トークやフォーラムなど)はわずかしか見なかったので、あくまでコンペ中心の所感となる。

 とはいえ、新潟フェスの核心は長編コンペである。エントリーされた作品は10本で、これはすべて見た。

 率直な感想は、10本のタイプには大きな差があった。良く言えば多様性に富み、悪く言えば技術的・内容的にレベルの低い作品も混じっていた。

 映画祭開催途中で知ったのだが、応募があったのは世界15の国と地域から21作品だったという。これを事前に一次選考にかけて、本選となる映画祭で10本が上映されたから、応募作のうちほぼ半数が一次選考を通過したことになる。

 以前、私はある国際アニメーション映画祭の長編部門の一次選考に関わったことがある。この際は、応募が約15作で、そこから本選に4作を選んだ。短編にせよ長編にせよ、本選に何本入れるかは、多くの場合、映画祭での上映枠の時間内に収めなければならない事情がある。私が関わった長編アニメ選考では、私の眼からすれば、受賞候補になり得るレベルの作品は2本くらいだった。他の国内外のアニメーション映画祭の長編部門でも、だいたい4~5本が本選に入ることが多い。

 つまり、21作のうち10作を本選に入れるというのは、いかにも多いわけである。良くも悪くもさまざまな作品が入ってきたのは当然だった。

 ただ、別な捉え方をすれば、世界的にも初めての長編アニメーション専門映画祭で、どのように作品を募り、どう選考し、一般観客も集うコンペティション上映作品を選ぶか、すべてが実験であり、かつ議論を喚起する内容にできるかが肝要である。その意味では、ストーリーテリング、社会性、デザイン、アニメート、3DCGの使い方まで、興味深い揃え方をした10作にも見えた。

 

 さて、受賞結果。グランプリの『めくらやなぎと眠る女』(P・フォルデ監督、フランス・カナダ・オランダ・ルクセンブルク)は私の予想通りだった。村上春樹の短編小説を独自に再構成した作品で、東日本大震災後の東京が舞台、ごく普通に見える人間の内外を淡々と、かつ泥臭く描いた。日本で理解されているアニメのエンタメ性は皆無に近いが、劇映画では表現できない世界やキャラクターなど、アニメファンではない大人向けの要素は存分にある。「こういうアニメを商業作品として公開、成功するにはどうすればよいのかを日本のアニメ界は考えよ」という審査陣のメッセージが聞こえそうな授賞だった。

 監督のピエール・フォルデ(Pierre Fӧldes)は、私などはピーター・フォルデスという1960年代からコンピュータを使った前衛的な短編アニメーション作家を思い出すが、ピエールはそのピーターの息子である。

 そして、元来は「監督賞」「脚本賞」「美術賞」「音楽賞」という賞が設けられていたが、審査員の合議の結果、「傾奇賞」「奨励賞」「境界賞」という3つの賞に変更し、それぞれ1作ずつ受賞作が決まった。多様な10本が集まる中で、通例の映画祭のような授賞は困難と判断されて、件の3賞になったという。

 傾奇賞は『カムサ – 忘却の井戸』(ヴィノム監督、アルジェリア)、奨励賞は『劇場版「ヴァンパイア・イン・ザ・ガーデン」』(牧原亮太郎監督、日本)、境界賞は『四つの悪夢』(ロスト監督、オランダ・フランス)である。

 この中で特筆したいのは境界賞を受賞した作品である。デジタル技術を存分に使ってはいるが、従来のアニメに見慣れた者なら「何これ?」と思ってしまうほど、コマ単位で映像を管理するというアニメーションの概念からは遠い作風である。私個人の好みからもズレている作品だが、この授賞は、新潟フェスの目線と方向性、発言力を示す象徴となり得るのではないだろうか。

 受賞式の直前に賞の構成を変更した「面白さ」を含めて、結果的には成果を残せた第1回映画祭のコンペティションだったように感じた。

後編に続く)

ひろしま、新千歳、東京、そして新潟 ーー 第1回新潟国際アニメーション映画祭を観覧して(前編)

 この3月17日から新潟国際アニメーション映画祭が開催された。会期は6日間にも及び、長編アニメ専門のコンペティションというユニークさが際立つ映画祭の、記念すべき第1回である。

 日本開催の国際アニメーション映画祭は長らく広島国際アニメーションフェスティバル(広島フェス)がその役割を担ってきたが、これは2020年のコロナ禍によるオンライン開催を最後に30数年に及ぶ歴史に幕を閉じた。この広島フェスの後を受けて、昨年8月に第1回として開催されたのが、ひろしまアニメーションシーズン(アニシズ)である。

そのほか、昨年11月に第9回目の開催となった北海道・新千歳空港国際アニメーション映画祭、そして今年3月に第10回目となった東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)が順調に実績を積み重ねてきている。そこへ新設されたのが新潟フェスである。

 今回は新潟フェスの印象を、前編、中編、後編の3回に分けて書いていくが、この前編では、新潟フェスの位置づけや役割を明らかにするため、既存のアニメーション映画祭について述べようと思う。

 

 世界各国から新作を公募し賞を競う形の日本初のアニメーション映画祭は、1985年に第1回が開催された広島フェスである。上映時間30分以内の短編アニメーションが対象の広島フェスはほぼ2年に一度開催され、30年以上にわたって多くの新人たちの登竜門となった。

 しかし、アニメーションについての文化的認識の変化とか技術的革新が進んだとか、そういった状況変化に広島フェスは十分対応できていないという意見も出てきた。広島フェスは古典主義的に過ぎる映画祭となったが、逆に言えばそれが広島の特徴でもあった。

 特にアニメーション映画祭であれば、短編であっても「学生部門」「コマーシャルフィルム部門」などのカテゴリーが設けられ、そのカテゴリーごとに授賞するのが通例だが、広島フェスにはそれがなく、ベテラン作家の力作を押しのけて学生作家の作品が受賞することもあった。

 

 こうした中で、世界的なアニメーションの趨勢に追いつこうという意図で開催されたのが新千歳フェスだった。フェスを統括するフェスティバルディレクター(FD)を中心として、世界のアニメーションの「いま」を提示し、観客を驚かせようという意欲が強く感じられる、啓蒙的色彩の濃いものだった。

 一方、ほぼ同時に始まったTAAFは、初回から長編アニメ部門が創設された。私個人はかなり以前から短編専門の広島フェスにも長編部門があればと考えていただけに、嬉しかった。また、コンペティションに選出される作品は短編、長編ともエンタテインメント性を重視する傾向が感じられ、これもTAAFを特徴づける要素となった。

 長編部門は、新千歳フェスでも第5回から創設されたが、新千歳の大きな特徴と感じられたのは第2回から「日本コンペティション」、つまり日本人作家の作品だけを集めたカテゴリーを設けたこと、その後も北海道在住・出身作家の特集上映や、地元の子どもたちを審査員とした「キッズ賞」の創設など、地域性を重視してきた点である。

 

 昨年第1回が開催された広島のアニシズは、カテゴリーがさらに斬新なものだった。「環太平洋・アジアコンペティション」と「ワールドコンペティション」とに分け、また「ワールド」ではさらに「寓話の現在」「社会への眼差し」「物語の冒険」「光の詩」「こどもたちのために」という名称の5つのカテゴリーに分けて審査された。大いに驚いたのは、長編と短編とを分けず、この5つのカテゴリーに振り分けた点である。

 しかし、「環太平洋・アジア」ということは、日本など東アジアとは地球の反対側の中南米の作品が同一のコンペに入る。また、「ワールド」での5つのカテゴリーは抽象的でありながら観客に先入観を強いる側面もあった。長編と短編が一つのカテゴリーに入るなど、私には考えもつかなかった。旧来の広島フェスを見直し、またヨーロッパ中心の短編アニメーションの価値観をも脱却して、アニメーションの新しい評価軸を「アニシズならでは」として目指そうという意図は評価できるものの、正直なところ観客には戸惑いも拡散した。

 コロナ禍以前の2018年広島フェスと比べて、第1回アニシズは観客が4割減と伝えられた。コロナの影響で海外からのゲストはほとんどおらず、また国内移動も制限を余儀なくされる中で、この4割減をどう捉えるかは難しい。

 しかし私が見た限りでは、閉会式の閑散とした観客席は残念だったし、私が知る多くの広島フェス時代の常連客が不参加だった。観客自体を刷新したいという考えが、アニシズ首脳陣の胸中にあるのかもしれない。

 それは一つの考え方だと思う。さまざまな課題を指摘されながらも変われなかった(変わらなかった)旧来の広島フェスを刷新するとなれば、そのくらいの気概も必要だろう。

 だとすれば、肝心なのは次回である。広島フェス時代からずっと課題だった地元観客へのアピールを含めて、2024年夏の第2回大会で、その真価が問われるだろう。

 そして、この「第2回大会が問われる」は、今回の新潟フェスでも強く感じた。

中編に続く)

新刊 「日本アニメ史」(中公新書)刊行のお知らせ

 このたび、私の新著「日本アニメ史」(中公新書)が刊行されました。奥付では4月19日刊行ですが、書店にはすでに週末から並んでいたようです。

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 1917年、日本で初の国産アニメーションが公開されてから現在までの日本アニメ通史ですが、年表的に事実を書き連ねたものではなく、いくつかの年代に区切って、その年代を象徴する作品や作家、出来事を解説しました。

 周辺領域の重要な作品や作家、スタジオの成立などもできるだけ盛り込みましたが、膨大なアニメ100年史からすれば、漏れ落ちてしまったもののほうが圧倒的に多く、たった一人の著者が歴史を書く難しさを痛感しました。

 それでも、戦前期から1950年代、つまり東映動画虫プロ以前のことにもかなりページを割き、現在に至る日本アニメの道筋を明らかにしようと努めました。

 今後の研究、批評、ジャーナリズムに供されるものになっていれば幸いです。

 よろしくお願いいたします。

細田守監督『竜とそばかすの姫』 雑感

 細田守監督の長編アニメは、これまで都市を基軸に舞台が創造されていた。
 『サマーウォーズ』(2009)も『おおかみこどもの雨と雪』(2012)も、舞台の大半は田舎だが、映画の発端は都市である。『おおかみこども』では、主人公が子ども二人とともに大都市で生き続けるか否かの選択肢に直面し、以後舞台が田舎に移っても、発端としての都市の残像は作中から消えない。
 『バケモノの子』は渋谷(都市/人間界)のパラレルワールド・渋天街(バケモノ界)が現れ、双方を行き来する主人公を描いた。
 『時をかける少女』(2006)と『未来のミライ』(2018)も全編都市であるが、時間軸を交わらせ、または重層化して、主人公の心理描写を試みた。
 
 『竜とそばかすの姫』(2021)は初めて田舎に基軸を置き、僻地から都市へのダイナミズムが表現された作品である。
 私はこれまで、仮想世界とか時間軸の交錯とか、そうした仕掛けがない『おおかみこども』が細田監督の仕事の中で異色作であり、それが彼の長編アニメ第4作という作品史からして、彼の内的宇宙が本人にとって照れくさく表現された作品だと考えていた。
 どうやら『竜とそばかすの姫』の出現で、細田監督の作品史に、新たな流れが加わった。
 
 とはいえ、変わらないこともある。それは、コミュニティの描写である。
 基本的に細田作品は、コミュニティ(最小単位としては家族)を描いているようでいて、コミュニティが足かせになっている主人公を描き、そのコミュニティから離脱する意味を問いかけている。そして、コミュニティからの離脱を安易に「成長」とせず、コミュニティへの帰還をも描きながら、価値観が対置される。これは『竜とそばかすの姫』でも変わりない。
 
 コミュニティや家族というのは、けっこう面倒なものである。それは『竜とそばかすの姫』でも、僻地と都市との双方において否応なく描かれている。
 コミュニティの面倒くささ極まる田舎を発端にした『竜とそばかすの姫』は、そこに生きる主人公を存立させつつ、異なるコミュニティをつなぐ象徴としての駅、バス、そして仮想世界などを際立たせた。
 
 アニメの界隈では、「監督が意図したとおり読み取らなければ」という使命のようなものが、特に強い。それ自体は大切な考え方だが、作品というものは発表された瞬間から作者のものではなくなり、観客の共有物になる。
 細田作品の新しい潮流が見えた『竜とそばかすの姫』、現在「最も次回作が待たれるアニメ監督」の一人である細田守の作品を同じ時間軸で共有できることを喜びたい。

近況(仕事、その他)

 またまた長いことこちらで書いておらず、不活性なブログになっていますが、このブログの連絡先を使って仕事の依頼をいただくことも多く、感謝いたします。

 少しわかりにくいですが、左上の「プロフィール」に表示の「tsugata」をクリックいただければ別ページに跳び、そこにある「tsugata」をもう一度クリックすればプロフィールページになります。末尾に連絡用メールアドレスがあります。

 最近は、次の単行本の原稿執筆を続けており、これがメインの仕事になっています。刊行は来年の早い時期、でしょうか。

 最近見たアニメでは、『映画大好きポンポさん』が抜群に良かったですね。予告編の編集で認められる若手とか、何度も何度もオーディションに落ちていた彼女がヒロインに抜擢されるとか、ロケで偶然に虹が撮れて大喜びするとか、クランクアップ後に何かが起きるとか、往年の映画愛に溢れる内容で、本当に素晴らしかった。

 『シン・エヴァンゲリオン』については、いま書いている単行本でも少し取り上げる予定です。

ラトビアの長編アニメーション『Away』日本公開決定

 たいへんうれしいニュースである。

 私は昨年の新千歳空港国際アニメーション映画祭の長編コンペティション部門での上映で見て、その斬新にして静謐な映像に大いに感動した『Away』、このブログでも2回に分けて紹介と論評を書いた。

 ただ、やはり昨年の東京国際映画祭でも上映されたにもかかわらず、ほとんど話題にならなかった。最近の海外長編でいうと、『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』(フランス・デンマーク、2015年)とか、『幸福路のチー』(台湾、2017年)のように、どこかで日本の伝統的な長編アニメとの共通性を見出せないと注目されにくい現況は忸怩たるものがある。

 したがって『Away』は、そうした現況をかんがみるに、日本での一般公開は難しいかと思っていた。それが杞憂に終わったことになる。

 作品の詳細と公開情報は、以下のリンクのとおり。

 東京を皮切りに、大阪、京都、名古屋での公開も予定されている。