細田守監督『竜とそばかすの姫』 雑感

 細田守監督の長編アニメは、これまで都市を基軸に舞台が創造されていた。
 『サマーウォーズ』(2009)も『おおかみこどもの雨と雪』(2012)も、舞台の大半は田舎だが、映画の発端は都市である。『おおかみこども』では、主人公が子ども二人とともに大都市で生き続けるか否かの選択肢に直面し、以後舞台が田舎に移っても、発端としての都市の残像は作中から消えない。
 『バケモノの子』は渋谷(都市/人間界)のパラレルワールド・渋天街(バケモノ界)が現れ、双方を行き来する主人公を描いた。
 『時をかける少女』(2006)と『未来のミライ』(2018)も全編都市であるが、時間軸を交わらせ、または重層化して、主人公の心理描写を試みた。
 
 『竜とそばかすの姫』(2021)は初めて田舎に基軸を置き、僻地から都市へのダイナミズムが表現された作品である。
 私はこれまで、仮想世界とか時間軸の交錯とか、そうした仕掛けがない『おおかみこども』が細田監督の仕事の中で異色作であり、それが彼の長編アニメ第4作という作品史からして、彼の内的宇宙が本人にとって照れくさく表現された作品だと考えていた。
 どうやら『竜とそばかすの姫』の出現で、細田監督の作品史に、新たな流れが加わった。
 
 とはいえ、変わらないこともある。それは、コミュニティの描写である。
 基本的に細田作品は、コミュニティ(最小単位としては家族)を描いているようでいて、コミュニティが足かせになっている主人公を描き、そのコミュニティから離脱する意味を問いかけている。そして、コミュニティからの離脱を安易に「成長」とせず、コミュニティへの帰還をも描きながら、価値観が対置される。これは『竜とそばかすの姫』でも変わりない。
 
 コミュニティや家族というのは、けっこう面倒なものである。それは『竜とそばかすの姫』でも、僻地と都市との双方において否応なく描かれている。
 コミュニティの面倒くささ極まる田舎を発端にした『竜とそばかすの姫』は、そこに生きる主人公を存立させつつ、異なるコミュニティをつなぐ象徴としての駅、バス、そして仮想世界などを際立たせた。
 
 アニメの界隈では、「監督が意図したとおり読み取らなければ」という使命のようなものが、特に強い。それ自体は大切な考え方だが、作品というものは発表された瞬間から作者のものではなくなり、観客の共有物になる。
 細田作品の新しい潮流が見えた『竜とそばかすの姫』、現在「最も次回作が待たれるアニメ監督」の一人である細田守の作品を同じ時間軸で共有できることを喜びたい。