近況(広島フェスの今後について、など)

 あまりにも長期間、記事をアップしていないので、近況を少し書く。

 コロナ禍でアニメ界もさまざま影響を受けているが、先週末(9月26日・27日)には、3月開催予定だった「東京アニメアワードフェスティバル2020」のノミネート作品上映会が池袋・新文芸坐であった。

 長編4本は、グランプリ受賞『マロナの幻想的な物語り』(8月末から一般公開)、優秀賞『カブールのツバメたち』、そして『フリッツィ』、『雪の女王:鏡の国』で、このうち『カブール』はタリバン支配下アフガニスタン・カブールが舞台、『フリッツィ』はベルリンの壁崩壊直前の東ドイツライプツィヒが舞台の作品。

 いずれも「ドキュメンタリー・アニメーション」の性格の色濃い作品で、こうした作品が世界的に多く制作される傾向は、まだしばらく続きそうだ。

 私自身の仕事としては、広島を中心に販売されている中国新聞のコラム欄「緑地帯」で、9月11日から「アニメ史へのいざない」というタイトルで8回連載(日月を除く毎日掲載)した。この中で、次回から大きく変わると報道されている広島国際アニメーションフェスティバルについて、今後への提言も含めて少し書いた。

 広島フェスは、どうやら相当に縮小されそうで、「映画祭」とは呼べない形になる方向で検討されているようだ。初回開催以来、市民になかなか浸透しないまま35年が経ち、その一方で、たとえば近年、甚大な自然災害を複数回受けた広島の現況を理解しなければならないし、アニメファン的な立場だけで見ても、ここ数回の広島フェスはマニアックなプログラムが増えすぎており、再検討は広島フェスをよりよくする一つの機会だと私は考えていた。

 しかし、映画祭の体裁をとれないほど刷新(縮小)されるのは、35年もの広島市の実績を自ら「否定」することになりかねない。音楽イベントを主体として、マンガ、ゲームなど「メディア芸術」を多く加えて、その中にアニメーションを入れるというのが現在の構想のようだが、広島フェスのこれまでを100とすれば、50くらいの規模まで絞り込む(凝縮する)ことで、映画祭としての継続は十分可能だ。

 そもそも広島フェスは、1990年の第3回大会までは、旧・厚生年金会館の大ホールの1スクリーンのみで開催されてきて、第4回からは現在までの会場のアステールプラザの大・中ホールの2スクリーン、そして2002年の第9回大会からアステールの多目的ホールをくわえた3スクリーンで、同時に異なるプログラムを上映するようになり、結果的に上映作品が激増した。ちなみに会期は、いずれも5日間である。

 これを、初期の1スクリーンのみのプログラム構成にしたとしても、これまでの広島フェスのエッセンスを凝縮した映画祭として、継続は可能である。

 また、音楽、マンガ、ゲームなどはいずれもアニメーションを含めて関連性、親和性が強く、多くの観客の興味をひく構成が可能だが、ともすれば、それぞれの分野で独立的な展示や公演になってしまいがちで、効果的なプログラムにするには、高度なキュレーションが求められる。それぞれの「専門家」を呼ぶだけでは、おぼつかない。

 広島市民ではない私は、遠く報道で伝えられる内容を把握することしかできないが、まだ時間はある。

 広島市には、これまでの広島フェスの「よい部分」を、あらためて見つめなおし、どう継続できるかを考えていただければと、切に願う。

今年の「新千歳」(2) アニメーションという大海に身を委ねた「Journey ; 旅路」―― 長編『Away』

 今年の「新千歳」(1)に引き続き、ラトビアの長編『Away』について書く。
 本作は、全体で4部に分かれている。
 第1部は「オアシス」
 冒頭、パラシュートで降下したと思える少年が巨木に引っかかっているシーンから始まる。周りは何もない荒野、そこに、巨大な「黒き精霊」が現れ、少年にゆっくりと近づいてくる。逃れた少年は、やがて緑深いオアシスに迷い込む。そこで、まだ飛べない黄色の小鳥と出遭う。
 少年はその深い緑の中で小さなリュックサックを見つける。中には、水筒、マッチ、地図、鍵などが入っていた。
 そして、オアシスの入口近くでオートバイが放置されており、リュックに入っていた鍵を差し込むと、エンジンがかかった。振り返ると、あの精霊が自分をゆっくりと追いかけてくる。
 少年は意を決して、オートバイにまたがった。小鳥とともに、彼の「Journey」が始まったのである。
 
 第2部は「鏡の湖」
 オートバイを走らせ進み行くと、深い深い谷に木組みの橋がかけられたところに出る。少年はおそるおそる橋を渡りきるが、あの精霊も追ってくるではないか。
 少年は高い岩山に登り、そこから巨石を落として、橋もろとも精霊を谷底に突き落とす。
 さらにオートバイを走らせると、鏡のように周りの風景を映し出し、静謐な湖の前にでる。しかし湖上はただの水ではない。少年は、湖上をひたすらオートバイで駆ける。
 
 第3部は「夢」
 夜。少年は旅の疲れを癒すように、熾した焚火の横で眠りにつく。
 ここから、現実と夢とが交錯してくる。墜落した旅客機の機内、相変わらず迫り来る精霊。そういえば、少年はなぜたった一人でパラシュートで降下したのか。
 
 第4部は「雲の港」
 少年の旅は続く。やがて、高い山の頂上から雲が晴れ、はるか視線の先に港が見える。あそこから船に乗ることができるのか。
 しかし港は、少年のいる山(陸地)から海を隔てた遥か先、少年は意を決してオートバイもろとも猛スピードで山から飛び出すが、届くはずもなく、海の中へ墜落してしまう。
 
 ラストシーンは書かないが、こんな具合である。
 登場するキャラクターは少年ただ一人。あとは精霊と動物たちだが、少年を含め、セリフもナレーションも一切入らない。物語の始まりから展開まで、少年の一挙手一投足、カメラワーク、そして音楽が物語の進行をつかさどる。それらはあくまで自然で淡々としており、劇的で過剰な演出は少しもない。何より、一人の少年の旅というシチュエーションから想像される「冒険」らしい冒険がない。

 
 上映後の監督トークによれば、本作では脚本やストーリーボードなどを最初から作らず、本編を制作していきながら内容を拡大していったのだという。
 私にとっては、逆にそうしたところが、素直に作品世界に入り込めた要因になった。いわゆる感情移入しない形で、アニメーションで描かれた世界と私とが一体になった、まさに私自身が「旅」をしているかのような、不思議な感覚に囚われたのである。こんなことは久しく記憶にないし、鑑賞した日は終日、興奮が冷めなかった。
 監督は「登場人物が一人なので、セリフは必要ない」「会話をなくしたことでカメラの表現が強調される」と語ったが、この独特のカメラワークは、どうやら監督がゲーム好きで、ゲーム映像のように、プレイヤー(鑑賞者)に主体をおいた演出になったからかもしれない。

 私がいつのまにか作品世界の主人公のように感じられたのは、それによるところが大きかったように思う。

 

 映像はフルデジタルだが、造形的には2D主体、影はつけず、色数も抑えられ、総じてシンプルに過ぎるくらいに作られている。
 監督は「単独で制作したので、そうならざるを得なかった」という。私に言わせてもらえれば、的確に「引き算をした」ということである。

 監督自身の制作による音楽も独特で、一つのシーンに対して一つのメロディが、オーケストレーションを含めて徐々に発展するようなサウンドで組まれており、私は観ていて非常に心地よかった。

 これについて監督は、「多くの予算があるアニメーションでは、音楽が「喋りすぎ」ている。自分は1シーンに1トラックで、音楽が邪魔しないようにした。シンプルな解決方法を選択するほうがうまくいくことを本作で学んだ」と語った。
 そしてその音楽は、本編に先駆けて制作し、出来上がった音楽によって映画のアイデアが出てくるほどになったという。
 
 こうした長編アニメーションなので、日本で人気を獲得できるタイプの長編アニメとはまるで異なる。一般的な観客の心を捉えるようなストーリーの起伏とか、リズムとか、劇的なシーンが皆無なのである。観ていて眠くなる観客も少なくないだろう。
 それは、やむを得ない。『Away』は、いままでに類を見つけ難い、「インディペンデントで長編アニメーションを作るとすれば」という命題に対する一つの解答を、ささやかに、かつ明瞭に導き出した作品だからである。
 
 それにしても、ジルバロディス監督は、なかなか用意周到である。
 本作が4部構成になったのは、第1部の「オアシス」を独立した短編として制作し、それ以降の3部も助成金などを得ながら制作して、全体で1本の長編にしたからである。そのため、第1部の制作には3年を要したが、2~4部はトータルで1年間で制作したという。
 監督は「たとえ長編として完成できなくとも、それぞれ独立した短編として成立するようにした」「ラトビアの文化組織から助成金を得たが、長編よりも短編のほうが資金を得やすい」と語った。
 要するに、アイデア、デザイン、ソフトウェアの使用法に始まって、音楽、助成金獲得に至るまで、「単独で長編を制作する」という目的に従った周到な戦略を立て、それに見合う戦術=技法での制作を実行したのである。第1部には3年を要し、以後は1年で完成をみたのも、第1部において、単独で長編制作するための戦術的な試行錯誤を繰り返したからだろう。
 
 現在構想中の次回作は、やはり長編で、単独ではなく少人数のチームでの制作になるという。それでも、「5人以上のチームにはしない。インディペンデントのスピリットをなくさないように」とジルバロディス監督は語る。
 次回作でも、アニメーションという大海への旅に、観客をいざなってほしい。

今年の「新千歳」(1) 短編『Acid Rain』、『SHISHIGARI』、そして長編『Away』

 11月1日から4日間開催された、第6回新千歳空港国際アニメーション映画祭、私は今年が3回目の参加となった。この映画祭の意義、独自性については、前年までのこのブログで書いたので、ここでは、会期中に見た作品で印象に残った作品をいくつか書いておきたい。
 
 まず、短編のコンペティションで最高賞のグランプリを受賞した『Acid Rain』(T・ポパクル監督、ポーランド、2018年)である。

 村から抜け出した少女(といっても10代後半か)がさまよい歩く中で、やがて仲間を得て自動車で移動しつつ、彼女が認識する実体とイメージとが交錯するかのような世界を、あたかも現代の諸様相を凝縮した映像として、圧倒的な独創性で描き出した力作である。
 モーションキャプチャによる人物のアニメートと、ヴィヴィッドな色彩・デザインとの組み合わせは、見る者には強い不安感をも与え、26分という短編アニメーションとしては長めの呎ながら、決してスクリーンから眼を離すことができない。
 「こういう短編アニメーションが出てきた」ということへの驚きと、それにグランプリを与えた新千歳の存在感とが、同時に感じられた。
 
 次に、押山清高の『SHISHIGARI』、今もっとも注目されるアニメーターの一人である押山の初の短編作品である。北国の雪深い山中で、初めての狩りに挑む少年の様を描くストーリーだが、これまた『Acid Rain』とはまったく異なる手法で、描かれた世界と空気、そして息遣いを重厚なタッチで映像化してみせた。
 日本ではしばしばリアリティ、それを裏づける作画の密度や技量が問われてきた。その一方で、作画の文法や方向性に関する多様性を模索する動きもあり、以前、「日本アニメ(ーター)見本市」のいくつかの作品で試みられたような実験性もあった。
 『SHISHIGARI』には、そうした多様性への模索や実験性が見られ、それが高い水準で成功しているように感じられた。
 受賞に至らなかったのが非常に残念なのだが、本作は今後の展開によっては長編に発展していきそうな気配で、その流れに乗ることを強く期待したい。
 近年こうしたパターンで、つまり個人作家がまず短編として発表して、資金を募り、結果的に長編に発展させていく作品が増えているようである。
 
 『Acid Rain』と『SHISHIGARI』に共通していることとして私が見たのは、両作とも、しばしば問われるテーマとかメッセージとか、そういうこと以上に、「アニメーションでどのような世界を表現するか」という1点へのこだわりである。
 この点は、実はアニメーションを手がける者にとっての出発点であり回答であるはずだが、その点を突き詰めることなく、観客を気にしすぎる(つまり「何かを伝えなければならない」と考えすぎる)作者が少なくないのが現在だと、私は感じている。
 
 そしてもう1本、長編コンペティションでグランプリに次ぐ審査員特別賞を受賞した『Away』である。
 作者は、ラトビアの25歳、G・ジルバロディス監督。75分の長編を、音楽に至るまで1人で制作したという驚愕の作品である。
 今年の東京国際映画祭でも上映されたので、そちらで見た人もいると思う。しかし、話題になることはほとんどなかった。
 『Away』のストーリーは、映画祭公式パンフに寄せられた作品紹介では「少年と鳥がオートバイで島を駆け抜ける。黒き精霊から逃れ、家へと帰るために。」という短文のみ、さすがにこれだけでは未見の方々にはよくわからないと思うし、私も同じ思いで鑑賞した。
 そして、私は深く感動した。長くなるので、(2)で詳しく書きたいと思う。

小さな扉から見える世界の風景 -- 第15回吉祥寺アニメーション映画祭

 毎年恒例の吉祥寺アニメーション映画祭、今年で15回目を迎えた。私は初回以来、出品作のノミネートを行う選考委員と、本選の審査委員とを務めている。
 アニメーション映画祭とはいっても、出品作品数は多くて100本前後、今年は65本だった。吉祥寺(武蔵野市)に縁の深いアニメスタジオなどの企業賞も有する「街の小さな映画祭」である。それでも、それが15年も続いている例はあまりないはずで、またその間選考委員・審査委員とも固定メンバーから徐々に増えていったという歴史を刻んできたので、独特の実績を積み上げてきたといえる。
 とはいえ、繰り返しになるが「街の小さな映画祭」である。それは広大なアニメーションの世界の小さな扉であり、そこから見える風景には限界はあるが、今年は注目すべき作品が出品され、それが結果的にグランプリに選ばれたのは、この小さな扉から見える風景もまた一興だと感じた。
 
 昨日(10月20日)、本選上映と受賞作発表が行われた。
  http://www.kichifes.jp/wonderland/eigasai3.html
 これを書いている時点で、上リンクには受賞作一覧が発表されていないが、グランプリは、12.深谷莉沙さんの『MIMI』である。
 本作は、アニメーションのテクニックは抜群だが、よくあるような、日本でアニメファンとして時間を過ごし、アニメ制作技術を勉強して短編作家になった、という形跡は感じられない。明らかに異分野からアニメーションへ「越境」してきた作家特有のデザインと質感、そして構成である。
 残念ながら、現在のところネット等では公開しておらず、各国の映画祭に出品されている途上なので、すぐに見るのは難しいのだが、そのぶん、今回の吉祥寺で見ることができた観客は幸運だったと思う。
 本選の審査委員も多くが、グランプリに推した。
 
 ここ数年、アニメーションをめぐる世界の実情の変化は、そのスピード、内容とも著しく、私のように国内からそれを眺めている者にとっては、ついていくことさえ容易ではない。
 ただ、そのキーワードを一つ挙げるならば、先に掲げた「越境」である。それは、人材、資金、そしてジャンルにも及んでいる。
 その様相は、また別の機会に書いてみたいと思っているが、いずれにせよ、吉祥寺のような「小さな扉」からも、その世界の風景が垣間見えるようになったのは感慨深い。
 そうはいっても、私が昔から作家たちに変わらず求め続けていることもある。それは、自作において「引き算を恐れないこと」である。作品の呎数がわかりやすいのだが、もっと短くまとめれば確実に上位受賞に到達しただろう作品が、今回の吉祥寺でも見受けられた。
 引き算のやり方に、その作家の作家性が表れるのである。

新海誠監督、私は怒りませんでした。

 のっけから突飛なタイトルだが、最新作『天気の子』、公開初日に鑑賞した。
 本当に素晴らしかった。
 
 ほぼ1週間前、私の最新著書「新海誠の世界を旅する」(平凡社新書)が刊行された。
  https://www.amazon.co.jp/dp/458285916X/
 新海監督のこれまでのほぼ全作品を取り上げ、作品の舞台を私が旅しながら作品解読を行おうという趣旨である。Z会のウェブCM『クロスロード』も1章を割いて取り上げた。
 作品論・作家論になってはいるが、同時に旅行記でもあり、またそれぞれの地域の文化や地名の由来、鉄道史に至るまで、かなり広範囲の話題を取り上げた。
 その中で、私は『君の名は。』に関して、隕石衝突の大災害が「なかった」ことになったストーリーに疑問を呈したのである。これは公開当時から出ていた感想ではあるが、私は大災害を「なかった」ことにしたように見えることを指摘しつつ、むしろそれに関連して東日本大震災との関係を新海監督がインタビューなどで「喋りすぎ」たことを批判したのである。
  
 そうしたところ、『天気の子』公開直前、新海監督のインタビュー記事が発表された。
  https://news.yahoo.co.jp/feature/1389
 ここで彼は、『君の名は。』が「すごく批判を受けた」と告白した。それは「「代償なく人を生き返らせて、歴史を変えて幸せになる話だ」とも言われました。「ああ、全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまうんだな」と思いました。」と回想し、次回作(『天気の子』)では、「でもそこで「じゃあ、怒られないようにしよう」というふうには思わなかったです。むしろ「もっと叱られる映画にしたい」と。」
 つまり、新海監督が私の著作を読んだはずはないのだが、彼の弁に従うと、私は『天気の子』を見て、もっと怒る人に該当する可能性があったわけである。
 
 しかし、私は怒らなかった。
 『天気の子』は、彼のこれまでの作品歴の集大成というよりも、彼のキャリアを踏まえつつ異なるステージに上がり、驚くほど洗練された世界に満ち溢れていた。
 つまり彼は、アニメ監督から映画監督へとステージを変えたのである。
 新海誠監督は、他と比較されることのない独立峰として、アニメ界での存在感を、より確固たるものにしたのである。

2つの立場のクロスオーバー:『アニメ制作者たちの方法』

●『アニメ制作者たちの方法』
 編 者:高瀬康司
 出版社:フィルムアート社
 刊 行:2019年2月
 定 価:1,944円
 https://www.amazon.co.jp/dp/4845918080/ 
 
 ここ数年、アニメ研究のガイドブックというか指南書というか、そんなテーマの本が相次いで刊行されている。本書もそうした流れの一冊だが、類書とは違って多くの制作者たちが対談や談話で登場し、研究者による筆致と共存させているところがユニークである。
 私は「キネマ旬報」6月上旬特別号で本書の書評を発表したが、そのタイトルは「制作者と研究者のクロスオーバー」になった。
 かつて日本でのアニメ研究は評論家らによる座学だった。80年代のアニメブーム以降、アニメの社会的な位置づけが変わり、元来、もの言わぬ制作者たちが「発言する制作者(たとえば富野由悠季宮崎駿ら)」になった。さらにデジタルの時代に入って独自性を増した日本のアニメを的確に捉えるために「研究する制作者」が出現してきたのが現在、という趣旨の書評で、興味のある方は、この書評も併せて読んでいただければと思う。
 書評でも触れたことだが、本書には発展的な意味での課題もある。特に、多くの識者らによる「お勧めアニメ」がじゃんじゃん列記されているのは、こういうテーマ本の定番ではあるけれど、なんとかならないかと思う。先達が若者にむかって「座して知識と経験を語る」この種の方法以外の方法を模索し提示するのが、本書や類書が求められる役割である。
 もはや「アニメーション」は「アニメーション」だけでは成り立たず、扱えない、アニメーションの地場から一歩引いたところでのコンセプトワークを重視することこそ、アニメーションの本来像と未来性に迫るのだというあたりが、本書に通低する意識であり、これに従って、目次をさらに洗練させることができるはずだ。
 そう考えると、アニメ研究本の編纂は難しいと、あらためて思った。みんなファンなので、思い入れが強く、アニメーションという最新のテクノロジーを理解しているようで、意外に旧来の価値観から抜け出しきれないのだ。
 もちろん旧来からの価値観も現存して意味あるものであり、そこから抜け出さなくてもいいのだけれど、もしも抜け出すのなら、そして抜け出したいのなら、それに徹するべきである。

連絡先について

 特に記事をアップすることなく月日が過ぎてしまっています。

 そのためか、このページが検索結果から見えにくくなっているようで、連絡先としての機能が不十分になってしまっています。

 プロフィール欄にある「id:tsugata」をクリックして、たどっていっていただければと思います。

 引き続き、よろしくお願いいたします。