稀にみる心地よさ −−石田祐康監督『ペンギン・ハイウェイ』

 遅まきながら、見てきた。
 しかし、私が今年見た長編アニメの中では文句なく最高作。もちろん私は今年公開の長編アニメを全部見ているわけではないので、あくまで「私の見た」ということではあるが、正直なところ、石田祐康監督がここまでの長編アニメを作るとは、思っていなかった。
 
 絵の動きから台詞ワーク、そしてキャメラワークに至るまで、何ともいえない心地よいリズム感があるのが、何より嬉しかった。
 しかしそこには、たとえば宮崎駿、たとえば杉井ギサブロー、たとえば出崎統、もっとたくさん挙げられようが、そんな先人たちの筆遣いや言葉遣いがごく自然に感じ取られ、それでいて石田監督特有の「石田節」も健在で、つまりは、てらいのない映像話法が、この作品を成功に導いている。おそらくこれが石田監督の人間的な個性であり、それがあますところなく作品に表れているところが爽快だ。
 
 しかし、謎だらけの映画である。特に、街に突然現れたペンギンの群れも、森の奥の草原に浮かぶ<海>:水の巨大な球体の謎は、結局明らかにされなかった。また、ペンギンや球体にまつわる人間模様も総じて薄味で、それはクライマックスに至ってもさほど変化はない。
 私はこれが、この作品の本質であり、価値だと考えるものである。時に眼の覚めるようなスピード感に圧倒される映像は完璧に作られているが、「お話し」としては隙だらけなのだ。実に不思議なことに、そのことが観客にとっての心地よさにつながっているのだから。
 
 この作品は、映画に対して「何かを求めている人」には不都合だ。なぜなら、「何も与えてくれない」からだ。
 そういうことではなくて、119分間、完全に映画の閉じられた世界に浸りこみ、映画が終われば「それで終わり」 したがって、ストーリーやキャラクターなどに、すぐに「理由づけ」をしたがる人も、おそらく見ていてしんどいだろう。
 いまどき、そんな作品に仕上がっているからこそ『ペンギン・ハイウェイ』は傑作なのであり、ある意味、待ち望まれていた長編アニメと言えよう。
 
 ただし、私は原作を読んでいない。こういう形でアニメや映画を見ることはいくらもあるが、本作はたぶん、そのことを気にせずによいのだろうと思っている。

第17回広島国際アニメーションフェスティバル 論評

 表題の記事、ウェブ「アニメーションビジネス・ジャーナル」に寄稿しました。かなり長くなり、前・後編に分かれています。
 今回は、関係者にいろいろ取材した上で書いたのですが、全般的に私の意見が「こうだ」ということよりも、この記事の内容を踏み台にして、読者のみなさんそれぞれが広島の今後を問う感じになればと思います。
 記事ではあまり具体的に触れませんでしたが、今回参加して、その上でこれまでの広島フェス30年史を思い返して感じたのは、このフェスのコンペティション部門は「毎年傾向が変わる」ということ。
 それを良しとするか否かも、広島の存在意義と今後を問うきっかけになると思います。
 
 伝統になるべき時期にきた
  ―広島国際アニメーションフェスティバルを観覧して
 津堅信之(アニメーション研究/日本大学藝術学部講師)
  前編 http://animationbusiness.info/archives/6231
  後編 http://animationbusiness.info/archives/6227
 
  映画祭公式ページ http://hiroanim.org/

広島国際アニメーションフェスティバル開催にあたって

映画祭公式ページ: http://hiroanim.org/
 
 ほぼ1週間後、恒例の広島国際アニメーションフェスティバルが開催される。1985年の第1回からおおむね2年ごとに開催され、今年は17回目を数える。
 日本で唯一の国際アニメーション映画祭として歴史を刻み、役割を果たしてきたが、近年はその位置づけにも変化が生じている。新千歳や東京(TAAF)などでもコンペティションを有するアニメーション映画祭が開催されるようになり、また国際的にも映画祭の勢力図の変化があって、広島フェスの役割がますます問われるようになったからである。
 私は、海外の映画祭への参加経験はごくわずかしかない。しかし広島には、1987年の第2回大会から欠かさず参加しており、その歴史や変化、意義や課題などに触れてきた。
 
 今回の広島での最大の「話題」は、またしても日本人作家の作品がコンペに1本も入らなかったことである。4年前の第15回大会で史上初めて日本ゼロになって、あのしらけた空気がまた蔓延するのかと思うと、今から気が重くなる。
 正確に言うと、今回は、昨年アカデミーへのノミネートで話題になった『ネガティブ・スペース』が入っており、共同監督の一人はアメリカ在住の桑畑かほる(Ru Kuwahata)さんである。しかし、本作の制作国はフランスで、桑畑さんのパートナー、マックス・ポーター(Max Porter)さんとの共作である。
 また、コンペに入った全75作品のうち、制作国別の一覧表では日本作品が1本だけ入っているが、これは中国からの留学生の作品である。(東京藝大院での修了制作のため、制作国は日本となる)
 
 もはや2018年、国境や国籍の概念も変わり、アーティストは作品制作の機会を求めて世界中を渡り歩く時代なので、アニメーションの世界でも純然たる「日本」にこだわるのはナンセンスだという現況は理解できる。
 しかし、一般の観客にとって、映画祭とは文字通り「お祭り」であり、楽しみやワクワク感がなければ参加する意義が半減する。
 前回大会のコンペでは、日本人のベテラン作家から学生作家まで7本も入り、うち3本が受賞したのだから、コンペの上映時も授賞式でも映画祭らしい盛り上がりを見せた。そのことを思い返せば、やはり今回は開催前から気の抜けた雰囲気を感じるのは、私だけではあるまい。
 なにより、毎年数100本単位で国内外の短編アニメーションを見ている私としては、日本人作家の作品が諸外国に劣っているとはまったく思えない。
 
 私は今回も全日程に参加し、私なりに取材をして、国際アニメーション映画祭の日本開催の意味、広島フェスの価値を問い、このブログ以外でも公式的に書くつもりだが、ポイントは、世界中のほとんど誰もが認めるであろうアニメ大国・日本にあって、1985年の初回以来実に30年以上も開催されているにも関わらず、関係者や一部のファン以外にはいまだに知名度が低い広島フェスとはいったい何か、である。あまり話題に上らないが、地元の広島での認知度も実は高くない。
 さきほどチラッと書いた、諸外国と日本との短編アニメーションの違いについても、記事で触れたいと思っている。
 第17回広島国際アニメーションフェスティバルは、8月23日から5日間、開催される。

これぞ「映画」の真骨頂 :細田守監督『未来のミライ』

 このブログの趣旨からすると、ちゃんと古今東西のアニメ文献のことを、しかももっと頻繁に書かなければならないのだが、やっぱりこれは書かずにはいられない、細田守監督の最新作『未来のミライ
 公開初日の夕刻からの上映を見た。それまでにはレビューや監督インタビューの類いは一切読まなかった。
 そして見ている途上、何度も不愉快になった。とにかく主人公の子どもがうるさい。物語の時間軸がどうなっているのか混乱するし、なんのために出てきたのかわからないキャラクターがあちらこちらに。その他、いろいろ。
 
 もともと細田守監督というのは、特に映画の構造的なところで、実験的なことをやろうとする志向の強い監督である。観客の予定調和を意識した仕事を嫌うといったほうがよいかもしれない。
 つまり、本作をみて「不愉快だ」と思った時点で、すでに細田監督の術中にはまっているのであって、私は見終わって映画館を出てから、不愉快に思った数々のシーンを噛みしめることになり、結果的にそうした雑念(不愉快さ)は消滅していた。
 
 それで思い出したのが、もう20年以上も前、宮崎駿監督の『もののけ姫』(1997)が公開されたときのことである。少なくとも私の周りの宮崎アニメファンの中では、『もののけ姫』はつまらなかった、失敗作だ、という評価が多数を占めた。実は私もそう思った。
 しかし、半年以上のロングランを経て、S・スピルバーグ監督の『E.T.』(1982)が樹立した日本国内での興行収入記録を大きく超えて、193億円という誰も予想できなかった成績をあげた。なぜそんな結果になったのか?
 
 映画の役割とは何かを、もう一度考えてみるべきだと思う。映画は観客のためのものだが、観客のため「だけ」のものではない。もちろん、あなたのため「だけ」のものではない。
 そういう意味で、アニメに関する発言者・ライターは、あまり観客に気を遣うような文章を書くのは留意すべきだと思う。
 
 おそらく『未来のミライ』は、宮崎監督の『もののけ姫』と同じく、細田監督の系譜の中で、それ「以前/以後」で語られる作品になると思う。
 私は一応研究者なので、この封切中の諸現象を見極め、細田監督の次回作公開に備えたいと思う。

高畑勲監督 死去

 高畑勲監督が、4月5日、死去した。82歳。
 アニメ界に大きな足跡を残した監督であり、今後さまざまな形で語られ、語り継がれていくだろうが、その大きな足跡から、2つの作品について書きとめておきたいと思う。
 
 1976年に放映され、高畑勲が監督したテレビアニメシリーズ『母をたずねて三千里』は、誰でも知っている原作を脚本段階で大幅に拡大し、原作にある違和感を払拭して、マルコ・ロッシという一人の架空の少年から見た社会の矛盾と、それに時には翻弄され、時には立ち向かい、そして時代を変えていこうとする大人たちのひたむきさを鮮やかに描ききった。
 高畑の「リアルな世界観」が描かれる作家性は、これ以前の長編『太陽の王子ホルスの大冒険』や短編『パンダコパンダ』、テレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』を経て、『三千里』で完成され、高畑の最高傑作といってもよい作品となった。
 私は、『三千里』を小学生のころ本放映で見ているが、大学に入る直前ごろの年頃で見直して、あまりに違って見えて呆然とした記憶が鮮明だ。
 
 そしてもう1作、私がその大学生時代に封切られた『火垂るの墓』である。
 原作の野坂昭如のインタビューによれば、これ以前に2度映画化の話があったが、野坂は断ったという。それほどまでに映像化が非常に困難な素材を、「アニメーションという技術を使って映画化」した本作は、当時、劇映画関係者たちが、ここまでの映像は実写では再現不可能と絶賛した。念のために書けば、当時は3DCGなど使えるはずもなく、すべてアナログ技術である。
 高畑のリアリズムが凝縮された傑作というにふさわしい作品なのだが、私個人は、別の意味で忘れられない記憶が重なっている。
 私は封切り初日の第1回目の上映を見たのだが、いくつかのシーンで、絵が入っていなかった。もう少し正確に書くと、キャラクターの輪郭線だけで動かし、色もなく、背景画もないというシーンがいくつか挿入されていたのである。たとえば、記憶を掘り起こすことになるが、作品終盤で、瀕死の節子と一緒に洞窟に潜んでいた清太が農作物を盗んだとして大人たちから殴られるシーンがあるが、あのシーンがたしかそういう線のみの映像だった。
 私はてっきり、高畑勲監督のことだから、何か意図があってそういう「演出」にしたのだろうと一生懸命考えたのだが、後日、これは作画が間に合わなかったのでやむをえずああなったのだという意味のことを聞いた。つまり、未完成のまま封切ったという、ありえない事態を目撃したことになったのである。
 
 この『火垂るの墓』での「事件」も、高畑の作家性がよく現れている。結果的に最後の監督作品となった『かぐや姫の物語』完成までの長すぎる道筋も、同じことが言えよう。
 ただ、その上で成り立っている高畑勲の作品や仕事への評価は、やはり別である。
 突然の訃報を受けて、ここでは書いているが、私も今後折をみて、また機会を得て、彼の仕事を振り返り、書いていきたいと思っている。

引き算のやり方を覚え、引き算を恐れないこと :「GEIDAI ANIMATION 09 oh!」

公式HP: https://www.geidai-animation-09.com/
 
 恒例となった東京藝術大学大学院アニメーション専攻の院生たちの作品発表会、今年は「GEIDAI ANIMATION 09 oh!」というキャッチフレーズで行われた。
 最近は多様性もあり、かつ驚くほど「毎年違う」ことがこの作品展の特徴なのだが、若干気の毒に思うのは、藝大院だからこそ、否応なく注目されることである。
 それに、藝大院のインディペンデント作家だからこそ、超然として、放っておかれて育つという土壌があるようで、彼らはそれに慣らされることもあるのかもしれない。
 今年についていうと、作品一つひとつには見るべきところはあるが、全体的な感想になると、率直なところ、私が期待する「驚き」を提供してくれた作品は少なかった。
 もっとも、私が驚くことが短編アニメーションの現在や未来にとって良いことかどうかは別の話である。しかも私は、どちらかというと保守的なので、私が好まざる作品にこそ、アニメーションの未来を指し示す力があると言ったほうが、バランスが取れているかもしれない。
 
 前置きはこのくらいにして、今年の修了制作作品の中でも、藝大院から出てきたとは思えない異才を放つ関口和希さん、前作(1年次作品)の『死ぬほどつまらない映画』で、文字通り「映画をぶっこわそう」とするかのような作りで観客を驚かせたが、今作の『性格変更スクール』でも、相変わらずというか、無駄なおしゃべりはまったくない。見事というほかない。
 そして、天才的ともいえるテクニックを駆使するストップモーションの見里朝希さん、彼の武蔵野美大卒業制作の『あたしだけをみて』、藝大院1年次作品『Candy.zip』、そして今作の『マイリトルゴート』、1作ごとに前作とは違う試みを取り入れ、それがちゃんと作品に反映されているところが素晴らしい。心配な点は、この才能に自分自身が「負ける」ことだろうか。そういう作家は過去にもいる。学生時代が全盛期ということにならないよう、活動を続けてほしい。
 
 ここで、今回の藝大院作品展を含む最近の若手作家らの作品を見ての印象を踏まえ、2点、申し述べたい。
 
 まず、自分自身の内的問題を解決するためにアニメーションをつくろうと、安易に考えないこと。
 古今東西、自身の内的世界を具象化し、作品化することは多くの作家がやってきたが、それを「観客に見せる」ような形にするには、相応のテクニックと、十分なプランが必要である。プランが作品として表現されているかというだけではない。プランの結果が見る者に伝わっているかどうか、そのためのプランを練るべきである。
 いずれにせよ、自分のために書いた日記の延長線上のような、しかも暗い作品を何本も見させられるのは御免こうむりたい。
 
 そして、作品づくりに「禁じ手」を設定すること、さらに言えば、「引き算」を恐れないこと。
 私の好きなある写真家が、「写真は常に引き算である。よけいなことを省くことによって、主題はより明快になる」と述べているが、私はこの言葉が好きで、しかも多くの表現領域に通じることだと思う。
 私の本業の文章書きだって同じだ。たとえば、3000字という文字数で注文を受け、書き始めたら、倍以上の字数になることはざらにある。そこから「引き算」をするのである。なにを引き算すれば言いたいこと(主題)がより明確になるのか、読み手にとって心地よいリズム感の文章になるのか。
 書きたいことを書くだけでは作品にならない。「引き算」するところに作家性が現れる。これは、短編アニメーションでも同じだと、私は思う。

豊かで奥深いコマ撮りの宇宙 :「ストップモーション アニミズム展」

公式HP https://stopmotionanimism4.wixsite.com/sma2018
 
 3月4日から18日まで、横浜の「FEI ART MUSEUM YOKOHAMA」で開催されていた「ストップモーション アニミズム展」 すでに終わってしまったので、ここで書いても宣伝にならないのが申し訳ないのだが、おそらく今後に引き継がれ、語り継がれる展示会になったと思う。
 
 ストップモーション(stop motion)とはアニメーションの技法の一つで、主に人形や粘土などの造形物、立体物を1コマずつ(1フレームずつ)撮影し、これを連続映写することで対象物を動いて見せる。人形アニメーションクレイアニメーションなど、いずれもストップモーションの1技法である。
 通常の手描きの絵などを使うアニメと原理としては同じだが、ストップモーション最大の特色は、実体の「モノ」をその場で少しずつ動かし、形を変え、それをカメラでコマ撮りしていくという「ライブ感」の大きい技法というところである。その意味で、すべて描きあげられた動画などを取り換えながら撮影していく描画アニメーションや、コンピュータの中で処理されていく3DCGアニメーションなどとは大きく違う。
 
 この展示会を主宰した伊藤有壱さんは、ストップモーションアニメーションの第一人者で、NHKの『ニャッキ!』を20年以上も手がけ、東京藝術大学大学院アニメーション専攻で教鞭をとりつつ後進の育成にも情熱を注いでいる。
 その彼と、藝大院の彼のゼミを卒業して各界で活躍する若手クリエイターらが集まったのが今回の「ストップモーション アニミズム展」である。ストップモーションを手がける作家は日本でも古くからいるが、個展、あるいはそれに近い展示会はあっても、ストップモーションとゼミ生とその主宰者というキーワードで20人近い作家が集結した展示会は、おそらく初めてのものだろう。
 
 会場のギャラリーに入ると、出品作家らの作品素材たちが出迎えてくれる。主宰の伊藤有壱さんのはもちろん『ニャッキ!』、ゼミ出身作家らの作品の素材は、人形、砂、粘土、フェルト、そして舞台セットまで、ストップモーションの素材が多彩なことに驚かされる。
 ギャラリー奥では作品上映が時間を区切って行われているが、よほど大急ぎでの来場でない限り、上映と展示がセットで楽しめるようになっている。まず展示を見て上映に移るか、上映を見てからあらためて素材たちを展示で見るか、それぞれ異なる「ストップモーションの宇宙」の旅を楽しむことができるだろう。中には家屋全体を使ってコマ撮りした壮大な作品もある。
 この上映会場では会期中3度、出品作家らによるトークが催され、作家たちがなぜストップモーションという技法を選び、自らの世界を反映させたのかを直接聞くことができる。
 
 さらには、出品作家らが来場者に直接サポートする体験ワークショップもあった。ギャラリーの一部を使った、参加定員5〜6人という小さな規模だが、参加者は素材を手に取って造形し、それをその場ですぐ撮影、動画を再生するのである。
 人形アニメーションの大家・川本喜八郎さんは、自著で次のように書いている。
「どんなに幼稚な人形でも、またどんなにガタガタしたアニメーションでも、自分たちで作った人形がスクリーンの中で動いているのを、はじめて観るとき、それを作った人たちの歓びと興奮は、はかりしれないものがある」「その歓びと興奮がどんなものか味わってしまったら、もう人形アニメーションの魔力から逃げることはできなくなるだろう」(「12人の作家によるアニメーションフィルムの作り方」(主婦と生活社、1980年))
 この「歓びと興奮」がその場で、自身の手で味わえるわけで、参加者はもちろんだが、実はその様子を横で見ているだけでも、ストップモーションという技法がいかなるものかを感じることができるのだ。
 
 かくして、作品上映、作品素材の展示、出品作家トーク、体験ワークショップという4つのメニューでストップモーションアニメーションを楽しむのが今回の展示の最大の特徴であるが、これだけの貴重な機会を、今後どう引継ぎ、ストップモーションを発展させていけばよいのだろうか。
 これは近年増えた美術館などでのアニメーション展示が常に抱える課題にもつながるのだが、作品の完成形(映像上映)ではないストップモーションの素材を展示することの意味、そしてその意義をどう位置づけるかである。
 今回のアニミズム展の場合、モニターなどではなく大きなサイズでの作品上映が併設されていたから、素材と上映との連接はできていたが、たとえば人形などの素材を見やすいように「置く」だけではなく、あたかも作品の一場面を切り取ってきたような展示は、どの程度可能で、どの程度効果的なのだろうか。この展示会でも、そのようなことを意識した展示はあったのだが、原画やレイアウトを展示するのとは違って、作品に実際登場する人形や素材がここにあるわけだから、展示の様態には、まだバリエーションがあるように思われる。
 
 そしてもう一つ、この展示、ぜひ日本各地で巡回してほしい。
 いまのところ巡回の予定はないようなのだが、横浜の展示で使われたギャラリーの床面積は約160平方メートル。上映やワークショップをどう運営するかによるが、もう少し小さなギャラリーでも開催可能なはずだ。
 豊かで奥深く、限りなく楽しいストップモーションの世界を、もっと多くの人と共有したいものである。