高畑勲監督 死去

 高畑勲監督が、4月5日、死去した。82歳。
 アニメ界に大きな足跡を残した監督であり、今後さまざまな形で語られ、語り継がれていくだろうが、その大きな足跡から、2つの作品について書きとめておきたいと思う。
 
 1976年に放映され、高畑勲が監督したテレビアニメシリーズ『母をたずねて三千里』は、誰でも知っている原作を脚本段階で大幅に拡大し、原作にある違和感を払拭して、マルコ・ロッシという一人の架空の少年から見た社会の矛盾と、それに時には翻弄され、時には立ち向かい、そして時代を変えていこうとする大人たちのひたむきさを鮮やかに描ききった。
 高畑の「リアルな世界観」が描かれる作家性は、これ以前の長編『太陽の王子ホルスの大冒険』や短編『パンダコパンダ』、テレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』を経て、『三千里』で完成され、高畑の最高傑作といってもよい作品となった。
 私は、『三千里』を小学生のころ本放映で見ているが、大学に入る直前ごろの年頃で見直して、あまりに違って見えて呆然とした記憶が鮮明だ。
 
 そしてもう1作、私がその大学生時代に封切られた『火垂るの墓』である。
 原作の野坂昭如のインタビューによれば、これ以前に2度映画化の話があったが、野坂は断ったという。それほどまでに映像化が非常に困難な素材を、「アニメーションという技術を使って映画化」した本作は、当時、劇映画関係者たちが、ここまでの映像は実写では再現不可能と絶賛した。念のために書けば、当時は3DCGなど使えるはずもなく、すべてアナログ技術である。
 高畑のリアリズムが凝縮された傑作というにふさわしい作品なのだが、私個人は、別の意味で忘れられない記憶が重なっている。
 私は封切り初日の第1回目の上映を見たのだが、いくつかのシーンで、絵が入っていなかった。もう少し正確に書くと、キャラクターの輪郭線だけで動かし、色もなく、背景画もないというシーンがいくつか挿入されていたのである。たとえば、記憶を掘り起こすことになるが、作品終盤で、瀕死の節子と一緒に洞窟に潜んでいた清太が農作物を盗んだとして大人たちから殴られるシーンがあるが、あのシーンがたしかそういう線のみの映像だった。
 私はてっきり、高畑勲監督のことだから、何か意図があってそういう「演出」にしたのだろうと一生懸命考えたのだが、後日、これは作画が間に合わなかったのでやむをえずああなったのだという意味のことを聞いた。つまり、未完成のまま封切ったという、ありえない事態を目撃したことになったのである。
 
 この『火垂るの墓』での「事件」も、高畑の作家性がよく現れている。結果的に最後の監督作品となった『かぐや姫の物語』完成までの長すぎる道筋も、同じことが言えよう。
 ただ、その上で成り立っている高畑勲の作品や仕事への評価は、やはり別である。
 突然の訃報を受けて、ここでは書いているが、私も今後折をみて、また機会を得て、彼の仕事を振り返り、書いていきたいと思っている。

引き算のやり方を覚え、引き算を恐れないこと :「GEIDAI ANIMATION 09 oh!」

公式HP: https://www.geidai-animation-09.com/
 
 恒例となった東京藝術大学大学院アニメーション専攻の院生たちの作品発表会、今年は「GEIDAI ANIMATION 09 oh!」というキャッチフレーズで行われた。
 最近は多様性もあり、かつ驚くほど「毎年違う」ことがこの作品展の特徴なのだが、若干気の毒に思うのは、藝大院だからこそ、否応なく注目されることである。
 それに、藝大院のインディペンデント作家だからこそ、超然として、放っておかれて育つという土壌があるようで、彼らはそれに慣らされることもあるのかもしれない。
 今年についていうと、作品一つひとつには見るべきところはあるが、全体的な感想になると、率直なところ、私が期待する「驚き」を提供してくれた作品は少なかった。
 もっとも、私が驚くことが短編アニメーションの現在や未来にとって良いことかどうかは別の話である。しかも私は、どちらかというと保守的なので、私が好まざる作品にこそ、アニメーションの未来を指し示す力があると言ったほうが、バランスが取れているかもしれない。
 
 前置きはこのくらいにして、今年の修了制作作品の中でも、藝大院から出てきたとは思えない異才を放つ関口和希さん、前作(1年次作品)の『死ぬほどつまらない映画』で、文字通り「映画をぶっこわそう」とするかのような作りで観客を驚かせたが、今作の『性格変更スクール』でも、相変わらずというか、無駄なおしゃべりはまったくない。見事というほかない。
 そして、天才的ともいえるテクニックを駆使するストップモーションの見里朝希さん、彼の武蔵野美大卒業制作の『あたしだけをみて』、藝大院1年次作品『Candy.zip』、そして今作の『マイリトルゴート』、1作ごとに前作とは違う試みを取り入れ、それがちゃんと作品に反映されているところが素晴らしい。心配な点は、この才能に自分自身が「負ける」ことだろうか。そういう作家は過去にもいる。学生時代が全盛期ということにならないよう、活動を続けてほしい。
 
 ここで、今回の藝大院作品展を含む最近の若手作家らの作品を見ての印象を踏まえ、2点、申し述べたい。
 
 まず、自分自身の内的問題を解決するためにアニメーションをつくろうと、安易に考えないこと。
 古今東西、自身の内的世界を具象化し、作品化することは多くの作家がやってきたが、それを「観客に見せる」ような形にするには、相応のテクニックと、十分なプランが必要である。プランが作品として表現されているかというだけではない。プランの結果が見る者に伝わっているかどうか、そのためのプランを練るべきである。
 いずれにせよ、自分のために書いた日記の延長線上のような、しかも暗い作品を何本も見させられるのは御免こうむりたい。
 
 そして、作品づくりに「禁じ手」を設定すること、さらに言えば、「引き算」を恐れないこと。
 私の好きなある写真家が、「写真は常に引き算である。よけいなことを省くことによって、主題はより明快になる」と述べているが、私はこの言葉が好きで、しかも多くの表現領域に通じることだと思う。
 私の本業の文章書きだって同じだ。たとえば、3000字という文字数で注文を受け、書き始めたら、倍以上の字数になることはざらにある。そこから「引き算」をするのである。なにを引き算すれば言いたいこと(主題)がより明確になるのか、読み手にとって心地よいリズム感の文章になるのか。
 書きたいことを書くだけでは作品にならない。「引き算」するところに作家性が現れる。これは、短編アニメーションでも同じだと、私は思う。

豊かで奥深いコマ撮りの宇宙 :「ストップモーション アニミズム展」

公式HP https://stopmotionanimism4.wixsite.com/sma2018
 
 3月4日から18日まで、横浜の「FEI ART MUSEUM YOKOHAMA」で開催されていた「ストップモーション アニミズム展」 すでに終わってしまったので、ここで書いても宣伝にならないのが申し訳ないのだが、おそらく今後に引き継がれ、語り継がれる展示会になったと思う。
 
 ストップモーション(stop motion)とはアニメーションの技法の一つで、主に人形や粘土などの造形物、立体物を1コマずつ(1フレームずつ)撮影し、これを連続映写することで対象物を動いて見せる。人形アニメーションクレイアニメーションなど、いずれもストップモーションの1技法である。
 通常の手描きの絵などを使うアニメと原理としては同じだが、ストップモーション最大の特色は、実体の「モノ」をその場で少しずつ動かし、形を変え、それをカメラでコマ撮りしていくという「ライブ感」の大きい技法というところである。その意味で、すべて描きあげられた動画などを取り換えながら撮影していく描画アニメーションや、コンピュータの中で処理されていく3DCGアニメーションなどとは大きく違う。
 
 この展示会を主宰した伊藤有壱さんは、ストップモーションアニメーションの第一人者で、NHKの『ニャッキ!』を20年以上も手がけ、東京藝術大学大学院アニメーション専攻で教鞭をとりつつ後進の育成にも情熱を注いでいる。
 その彼と、藝大院の彼のゼミを卒業して各界で活躍する若手クリエイターらが集まったのが今回の「ストップモーション アニミズム展」である。ストップモーションを手がける作家は日本でも古くからいるが、個展、あるいはそれに近い展示会はあっても、ストップモーションとゼミ生とその主宰者というキーワードで20人近い作家が集結した展示会は、おそらく初めてのものだろう。
 
 会場のギャラリーに入ると、出品作家らの作品素材たちが出迎えてくれる。主宰の伊藤有壱さんのはもちろん『ニャッキ!』、ゼミ出身作家らの作品の素材は、人形、砂、粘土、フェルト、そして舞台セットまで、ストップモーションの素材が多彩なことに驚かされる。
 ギャラリー奥では作品上映が時間を区切って行われているが、よほど大急ぎでの来場でない限り、上映と展示がセットで楽しめるようになっている。まず展示を見て上映に移るか、上映を見てからあらためて素材たちを展示で見るか、それぞれ異なる「ストップモーションの宇宙」の旅を楽しむことができるだろう。中には家屋全体を使ってコマ撮りした壮大な作品もある。
 この上映会場では会期中3度、出品作家らによるトークが催され、作家たちがなぜストップモーションという技法を選び、自らの世界を反映させたのかを直接聞くことができる。
 
 さらには、出品作家らが来場者に直接サポートする体験ワークショップもあった。ギャラリーの一部を使った、参加定員5〜6人という小さな規模だが、参加者は素材を手に取って造形し、それをその場ですぐ撮影、動画を再生するのである。
 人形アニメーションの大家・川本喜八郎さんは、自著で次のように書いている。
「どんなに幼稚な人形でも、またどんなにガタガタしたアニメーションでも、自分たちで作った人形がスクリーンの中で動いているのを、はじめて観るとき、それを作った人たちの歓びと興奮は、はかりしれないものがある」「その歓びと興奮がどんなものか味わってしまったら、もう人形アニメーションの魔力から逃げることはできなくなるだろう」(「12人の作家によるアニメーションフィルムの作り方」(主婦と生活社、1980年))
 この「歓びと興奮」がその場で、自身の手で味わえるわけで、参加者はもちろんだが、実はその様子を横で見ているだけでも、ストップモーションという技法がいかなるものかを感じることができるのだ。
 
 かくして、作品上映、作品素材の展示、出品作家トーク、体験ワークショップという4つのメニューでストップモーションアニメーションを楽しむのが今回の展示の最大の特徴であるが、これだけの貴重な機会を、今後どう引継ぎ、ストップモーションを発展させていけばよいのだろうか。
 これは近年増えた美術館などでのアニメーション展示が常に抱える課題にもつながるのだが、作品の完成形(映像上映)ではないストップモーションの素材を展示することの意味、そしてその意義をどう位置づけるかである。
 今回のアニミズム展の場合、モニターなどではなく大きなサイズでの作品上映が併設されていたから、素材と上映との連接はできていたが、たとえば人形などの素材を見やすいように「置く」だけではなく、あたかも作品の一場面を切り取ってきたような展示は、どの程度可能で、どの程度効果的なのだろうか。この展示会でも、そのようなことを意識した展示はあったのだが、原画やレイアウトを展示するのとは違って、作品に実際登場する人形や素材がここにあるわけだから、展示の様態には、まだバリエーションがあるように思われる。
 
 そしてもう一つ、この展示、ぜひ日本各地で巡回してほしい。
 いまのところ巡回の予定はないようなのだが、横浜の展示で使われたギャラリーの床面積は約160平方メートル。上映やワークショップをどう運営するかによるが、もう少し小さなギャラリーでも開催可能なはずだ。
 豊かで奥深く、限りなく楽しいストップモーションの世界を、もっと多くの人と共有したいものである。

内田康夫さん、他界 :「テレビアニメ夜明け前」に立ち会った人

 内田康夫さん死去、びっくりのニュースだが、83歳、もうずいぶん御歳だったことにも驚いた。
 私はこう見えても「浅見光彦シリーズ」のファンで、若い頃に何十冊も読んだが、その作者の内田さんが作家に転向する前にアニメーターだったことは、関西のアニメ史を調査するに及ぶまでまったく知らなかった。
 
 東洋大学中退後、東京でテレビCMのプロダクションに勤めていた内田さんは、そのときのメンバーが大阪で一光社(いっこうしゃ)というプロダクションを設立することになり、内田さんもメインスタッフのような形で移籍した。1957年のことである。
 当時、NHKに続いて民間放送が続々と始まり、テレビCM用のアニメーションの需要が急増したころで、スタジオさえつくればいくらでも仕事があったようだ。しかし大阪は未開の地、そこで内田さんら数名が開拓者として乗り込んだ形である。
 そんな内田さんの元で修行を積んだ老アニメーターたちが、私の取材対象になり、成果は「テレビアニメ夜明け前」(ナカニシヤ出版、2012年)として刊行した。「テレビアニメ夜明け前」というタイトルには、『鉄腕アトム』以前の開拓者らの群像を描いたという意味をこめた。
 本書には、当時一光社が作っていた草野球チームのユニフォームを着た若き日の内田さんの写真や、内田さんはあまり原画を描かずに指導に徹し、作画は修行中のアニメーターの仕事だったというエピソードなどを収録することができた。
 
 もう一つ、浅見光彦シリーズの一つ「しまなみ幻想」という作品でモデルになった旅館があり、テレビドラマ版のロケでも使われたらしいが、かつて私が勤めていた京都精華大学で学んでいた学生の実家が、その旅館だった。
 
 もちろん実際にお会いしたことはないけれど、作品の読者だったことにはじまって、何かと縁のある作家さんだった。
 合掌。

独自の「アニメーション観」を育てたい :東京アニメアワードフェスティバル2018

 http://animefestival.jp/ja/

 恒例の東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)が、一昨日無事終了した。
 私は長編コンペティション部門の一次選考委員を務めたが、TAAFのコンペは今回が事実上初参加なので、過去の傾向とは比較できないという前提ながら、私が審査に関わらなかった短編コンペについて、ここで書いておきたい。
 
 短編コンペは35本。全体として楽しげな、「ほほえましい」作品が多い、という感じである。したがって安心して見られるのだが、正直なところ刺激に乏しく、物足りないと感じたのも事実である。どこかで見たような作品が多い、とも言える。
 エントリの時点でどういう作品が集まったのかにもよる。今年は、短編・長編で合計731本、私が審査した長編は合計14本だから、短編は717本ということになろうか。
 この膨大な作品を審査した一次選考委員の労を多としなければならないが、選び抜かれたはずの35本が、こうも「普通」の作品で占められてしまうと、映画祭としての発信力がいかほどのものかと心配になる。
 私が選考委員だったら、ノミネート35作のうち、半分近くは落選させたかもしれない。
 
 まったく逆の印象をもったのが、昨年の第4回新千歳空港国際アニメーション映画祭である。次のステージのアニメーションは何かをしっかり見据え、それがどう評価されるのかを気にせず(つまりは批判を恐れずに)コンペティション作品群がアグレッシブに選出・構成され、映画祭としての発信力を強く意識しているのである。結果的に、作品上映と観客との間に、ある種の緊張感がみなぎることになる。
 
 今年は長編の審査にかかわったので、その場でTAAFがどのような作品を好み、選考しようとしているかはある程度理解できた。それは、ストーリーがはっきりしていて、あくまでエンタテインメントとして楽しめる作品を好む映画祭、というものである。この「好み」は、何であってもよい。それが、星の数ほどある映画祭の個性、発信力につながるからである。
 しかし、刺激に乏しいというか、きれいにまとまっている、安心して見られる作品を集めるのも問題で、ストーリーものだろうがエンタメだろうが、何らかの「新しさ」「驚き」をもった作品を選び、そこにTAAFならではのアニメーション観が欲しい。
 
 実は、長編の一次選考の場で、テクニックの良し悪しを重視しているのがTAAFのもう一つの特徴だと気がついた。それはつまり、テクニックが高度だから評価する、デジタル時代の現代にあえてアナログ技術にこだわっているから評価する、ということだが、これはほどほどにしたほうがよい。
 20年以上前のフル3DCGなら別だが、テクニックは文字通り手段であって目的ではない。アニメーションという映像言語を使って何を表現したいのかが大切である。
 実際、私が選考委員として参加した長編部門では、選考会議の場で、ある作品をノミネート4作品に入れるか否か、意見が分かれた。絵を動かす技術が稚拙に見えたのがその原因だと思うが、しかし私ともう一人の委員が強く推し、結果ノミネート4作品に入ったその作品『Have A Nice Day』は、本選で優秀賞を受賞した。
 もちろん、確かな技術力があってこそ確かな表現は可能となるが、テクニックを「見せるため」の作品は、表現としてのアニメーションの未来に、意外なほど影響を与えない。それに、テクニックの良し悪しを重視するなら、どの映画祭でも似たような評価軸を使うことになってしまう。
 
 最後にもう一言だけ。
 さきほど私は、私が短編コンペの選考委員だったら半分近くは落選させるかも、と書いた。逆に言えば、半分以上は同じく入選させている、ということでもある。見所のある、また現代ならではの題材に挑戦した作品も少なくなかった。そこはちゃんと評価したい。
 誰もが楽しめる、エンタテインメントとしてのアニメーションを育てていこうというのがTAAFなのだとしたら、それでよい。しかしその前提としての独自のアニメーション観を明確にし、牽引力を大きくするのは、残された課題である。
 今年の短編の出品数が717本だったが、大規模な国際アニメーション映画祭のコンペで、5回目の開催にしてこの「717本」というのは、実はかなり少ないことも意識すべきである。
 

東京アニメアワードフェスティバル2018

 今年度の東京アニメアワードフェスティバル2018が、明日から開催される。
 私は、新作が賞を競うコンペティション部門の「長編コンペティション」の一次選考委員を務めた。その流れで、3月10日、11日の2度、長編のノミネート作上映後のトークイベントに登壇する。
 詳しくは、以下のリンクで。 
 http://animefestival.jp/ja/post/8629/

映画ベストテンからアニメが除外された

●「映画芸術」2018年2月号
 出版社:編集プロダクション映芸
 定 価:1,585円
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0784LFPRN/

 雑誌「映画芸術」で、ベストテン&ワーストテンからアニメを除外するという宣言が話題になった。
 詩人の稲川方人、元文部官僚の寺脇研、演出家の河村雄太郎、脚本家で本誌発行人の荒井晴彦の各氏が本誌で対談する中で、「映画はカメラの前で人間が演じるもの」「デジタルのアニメはカメラがない」(稲川)、「アニメにドウサ(生身の演技)は存在しない」「(アニメには)作り手と演技者の間に戦いがない」(河村)、「最も分かりやすいのは、そこに役者がいないということ」(荒井)という感じで、総じて「生もの」の映画と「加工が自在」のアニメと、という比較を経て「肉体の復権」(河村)でアニメを除外した、というものである。
 やっと本誌を読むことができたので、賞味期限が切れかけた話題だが、書いてみたい。
 
 そもそも、このテの話題は、ずっと以前からある。いまドンと出てきた話ではない。
 それに、事は「アニメ」と「映画」との区分にとどまらず、長編と短編、「映画」の中にテレビ映画は含むのか含まないのか、いやいや大前提として日本で公開された「すべての映画」が対象であっても、一人ひとりの評者はそれを全部見ているわけがない。押井守監督の「すべての映画はアニメである」という名言もある。
 アニメファンの映画に対する積年の劣等感と、最近のアニメ攻勢に危機感を感じる映画人の、これまた劣等感とがぶつかっているという見立てもある。
 これは一つの「問題提起」であって、だからこそ、映画畑の人もアニメ畑の人も議論すべきだ、という意見もあって、これが結論としては収まりがいいようにも思うが、私はもう少し違う印象をもっている。
 というのも、映画畑とアニメ畑が今の状況で議論しても、結局どちらかの「畑」に相手を引き込もうとするわけで、換言すれば「勝ち負け」を決めようとする。これは不毛で、非生産的だ。
 
 ヒエラルキー(hierarchy)という語がある。一般的には「階層構造」という意味だが、生物学では「分類体系」と訳される。
 生物は、綱>目>科>属>種という階層(実際はもっとあるが)で、それぞれの種がどの属や科に属するかが決められている。ヒト(人間)ならば、哺乳綱>霊長目>ヒト科>ヒト属>ヒト、という具合である。
 ところが、この分類は研究者によってしばしば異なり、また時代によって(研究が進んで)その分類も変化していく。
 そこで、分類学者にとって重要なのは、何を基準にしてヒエラルキーを構築し評価するかという点であって、この限りでは、どの種がどの科に属するかという以前に、そのヒエラルキーの構築が議論の対象となる。
 
 もちろん生物学と映画とは一緒くたにできないが、たとえば、「映像」の下位分類に「静止画(写真など)」「動画(動く映像)」があり、「動画」の下位に「実写」と「アニメーション」、「アニメーション」の下位に「2Dアニメ」「フル3DCGアニメ」という具合にヒエラルキーを構築する。重要なのは、その分類が「何をもって成されたのか」を明確にすることである。
 私は職業柄、こうした分類を行うことがあるが、難しいのは、生物のように一方向に分類できない点で、上記のような技術的な分類にとどまらず、メディア(フィルム、テレビ、ビデオ、インターネットなど)による分類、制作目的(エンタメ用、教育用、記録用など)による分類などが複雑に絡み合うからである。
 ただ、何がどこに属するのかよりも、どういうポリシーで分類したのかを議論すべきなのは他の分野と同じで、その意味では、「そこに役者がいない」からアニメを外したというのもアリなのである。
 そして、実写映画の中にアニメが挿入(合成)されていることもあれば、逆のこともある。そうした場合、どうするのか。実写が主体であれば対象に含むのか、とすれば「主体」をどう規定するのか、はたまた「全編実写」でなければダメなのか、これらを議論すればよい。
 
 ところで、本誌発行人にして脚本家の荒井晴彦氏だが、氏には一つの伏線がある。昨年のちょうど今頃に開催された「あきた十文字映画祭」のパンフレットに、氏は次のような一文を掲載した(全文)。
 
「アニメの『君の名は。』の興収が200億円を越えて、AERAが『黄金期から低迷へ、そして日本映画は再び絶頂期へ』という特集をやっていた。商売がうまく行ったという特集だ。国会は改憲派が2/3を占め、映画館はオタクに乗っ取られてしまった。『君の名は。』を観て泣いている人は、映画史上の名作を観たことないんだろうなと思った。それでも、『この世界の片隅で』(ママ)が入ってると聞き、真っ当な客もいるのかと思って観に行った。相も変わらぬ戦争=被害映画、これはダメだと思った。庶民に戦争責任は無いのか。戦争で手を失った田中裕子が天皇の戦争責任を言う映画があり、戦時下の日常を描いた実写映画があり、加害を描いた映画もあったのに、もう忘れたのか。いま、客が一番悪い。」
 
 昨年、この文章がネットで拡散されて炎上に近くなった。私は昔から、「映画芸術」だけではなく「キネマ旬報」や「イメージフォーラム」などの映画誌で発言する荒井氏を承知していたが、さすがにこの「客が一番悪い」という一文は、本人の直筆(映画祭事務局の編集等はナシ)なのであれば、よほど虫の居所が悪い時に書いたのかと思った。
「庶民の戦争責任」など、傾聴に値する件はある。しかし「『君の名は。』を観て泣いている人」は、氏の意中にあるような「映画史上の名作」を見ても、まあ泣くことはないだろう。もちろん泣かなくとも問題ないし、はっきり言えば「映画史上の名作」を見る必要もない。大衆文化とはそういうものだし、「そういうもの」だからこそ現代ならではのテクスチュアズが紡ぎ出され、新しい文化が創生されていく。そして常に、時代に抗う流れは存在し、我々は彼らに尊敬と畏怖を念を向ける。
 今回の騒動、事の推移を見守るしかないが、ここまで書いてきて、「これは、べつに大した問題でもなかったな」と、私は結論づけた。ただし、私個人としては、ものの所属の是非よりも、ものを分類する考え方、方法を議論し究明することにはこだわりたい。