映画ベストテンからアニメが除外された

●「映画芸術」2018年2月号
 出版社:編集プロダクション映芸
 定 価:1,585円
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0784LFPRN/

 雑誌「映画芸術」で、ベストテン&ワーストテンからアニメを除外するという宣言が話題になった。
 詩人の稲川方人、元文部官僚の寺脇研、演出家の河村雄太郎、脚本家で本誌発行人の荒井晴彦の各氏が本誌で対談する中で、「映画はカメラの前で人間が演じるもの」「デジタルのアニメはカメラがない」(稲川)、「アニメにドウサ(生身の演技)は存在しない」「(アニメには)作り手と演技者の間に戦いがない」(河村)、「最も分かりやすいのは、そこに役者がいないということ」(荒井)という感じで、総じて「生もの」の映画と「加工が自在」のアニメと、という比較を経て「肉体の復権」(河村)でアニメを除外した、というものである。
 やっと本誌を読むことができたので、賞味期限が切れかけた話題だが、書いてみたい。
 
 そもそも、このテの話題は、ずっと以前からある。いまドンと出てきた話ではない。
 それに、事は「アニメ」と「映画」との区分にとどまらず、長編と短編、「映画」の中にテレビ映画は含むのか含まないのか、いやいや大前提として日本で公開された「すべての映画」が対象であっても、一人ひとりの評者はそれを全部見ているわけがない。押井守監督の「すべての映画はアニメである」という名言もある。
 アニメファンの映画に対する積年の劣等感と、最近のアニメ攻勢に危機感を感じる映画人の、これまた劣等感とがぶつかっているという見立てもある。
 これは一つの「問題提起」であって、だからこそ、映画畑の人もアニメ畑の人も議論すべきだ、という意見もあって、これが結論としては収まりがいいようにも思うが、私はもう少し違う印象をもっている。
 というのも、映画畑とアニメ畑が今の状況で議論しても、結局どちらかの「畑」に相手を引き込もうとするわけで、換言すれば「勝ち負け」を決めようとする。これは不毛で、非生産的だ。
 
 ヒエラルキー(hierarchy)という語がある。一般的には「階層構造」という意味だが、生物学では「分類体系」と訳される。
 生物は、綱>目>科>属>種という階層(実際はもっとあるが)で、それぞれの種がどの属や科に属するかが決められている。ヒト(人間)ならば、哺乳綱>霊長目>ヒト科>ヒト属>ヒト、という具合である。
 ところが、この分類は研究者によってしばしば異なり、また時代によって(研究が進んで)その分類も変化していく。
 そこで、分類学者にとって重要なのは、何を基準にしてヒエラルキーを構築し評価するかという点であって、この限りでは、どの種がどの科に属するかという以前に、そのヒエラルキーの構築が議論の対象となる。
 
 もちろん生物学と映画とは一緒くたにできないが、たとえば、「映像」の下位分類に「静止画(写真など)」「動画(動く映像)」があり、「動画」の下位に「実写」と「アニメーション」、「アニメーション」の下位に「2Dアニメ」「フル3DCGアニメ」という具合にヒエラルキーを構築する。重要なのは、その分類が「何をもって成されたのか」を明確にすることである。
 私は職業柄、こうした分類を行うことがあるが、難しいのは、生物のように一方向に分類できない点で、上記のような技術的な分類にとどまらず、メディア(フィルム、テレビ、ビデオ、インターネットなど)による分類、制作目的(エンタメ用、教育用、記録用など)による分類などが複雑に絡み合うからである。
 ただ、何がどこに属するのかよりも、どういうポリシーで分類したのかを議論すべきなのは他の分野と同じで、その意味では、「そこに役者がいない」からアニメを外したというのもアリなのである。
 そして、実写映画の中にアニメが挿入(合成)されていることもあれば、逆のこともある。そうした場合、どうするのか。実写が主体であれば対象に含むのか、とすれば「主体」をどう規定するのか、はたまた「全編実写」でなければダメなのか、これらを議論すればよい。
 
 ところで、本誌発行人にして脚本家の荒井晴彦氏だが、氏には一つの伏線がある。昨年のちょうど今頃に開催された「あきた十文字映画祭」のパンフレットに、氏は次のような一文を掲載した(全文)。
 
「アニメの『君の名は。』の興収が200億円を越えて、AERAが『黄金期から低迷へ、そして日本映画は再び絶頂期へ』という特集をやっていた。商売がうまく行ったという特集だ。国会は改憲派が2/3を占め、映画館はオタクに乗っ取られてしまった。『君の名は。』を観て泣いている人は、映画史上の名作を観たことないんだろうなと思った。それでも、『この世界の片隅で』(ママ)が入ってると聞き、真っ当な客もいるのかと思って観に行った。相も変わらぬ戦争=被害映画、これはダメだと思った。庶民に戦争責任は無いのか。戦争で手を失った田中裕子が天皇の戦争責任を言う映画があり、戦時下の日常を描いた実写映画があり、加害を描いた映画もあったのに、もう忘れたのか。いま、客が一番悪い。」
 
 昨年、この文章がネットで拡散されて炎上に近くなった。私は昔から、「映画芸術」だけではなく「キネマ旬報」や「イメージフォーラム」などの映画誌で発言する荒井氏を承知していたが、さすがにこの「客が一番悪い」という一文は、本人の直筆(映画祭事務局の編集等はナシ)なのであれば、よほど虫の居所が悪い時に書いたのかと思った。
「庶民の戦争責任」など、傾聴に値する件はある。しかし「『君の名は。』を観て泣いている人」は、氏の意中にあるような「映画史上の名作」を見ても、まあ泣くことはないだろう。もちろん泣かなくとも問題ないし、はっきり言えば「映画史上の名作」を見る必要もない。大衆文化とはそういうものだし、「そういうもの」だからこそ現代ならではのテクスチュアズが紡ぎ出され、新しい文化が創生されていく。そして常に、時代に抗う流れは存在し、我々は彼らに尊敬と畏怖を念を向ける。
 今回の騒動、事の推移を見守るしかないが、ここまで書いてきて、「これは、べつに大した問題でもなかったな」と、私は結論づけた。ただし、私個人としては、ものの所属の是非よりも、ものを分類する考え方、方法を議論し究明することにはこだわりたい。