豊かで奥深いコマ撮りの宇宙 :「ストップモーション アニミズム展」

公式HP https://stopmotionanimism4.wixsite.com/sma2018
 
 3月4日から18日まで、横浜の「FEI ART MUSEUM YOKOHAMA」で開催されていた「ストップモーション アニミズム展」 すでに終わってしまったので、ここで書いても宣伝にならないのが申し訳ないのだが、おそらく今後に引き継がれ、語り継がれる展示会になったと思う。
 
 ストップモーション(stop motion)とはアニメーションの技法の一つで、主に人形や粘土などの造形物、立体物を1コマずつ(1フレームずつ)撮影し、これを連続映写することで対象物を動いて見せる。人形アニメーションクレイアニメーションなど、いずれもストップモーションの1技法である。
 通常の手描きの絵などを使うアニメと原理としては同じだが、ストップモーション最大の特色は、実体の「モノ」をその場で少しずつ動かし、形を変え、それをカメラでコマ撮りしていくという「ライブ感」の大きい技法というところである。その意味で、すべて描きあげられた動画などを取り換えながら撮影していく描画アニメーションや、コンピュータの中で処理されていく3DCGアニメーションなどとは大きく違う。
 
 この展示会を主宰した伊藤有壱さんは、ストップモーションアニメーションの第一人者で、NHKの『ニャッキ!』を20年以上も手がけ、東京藝術大学大学院アニメーション専攻で教鞭をとりつつ後進の育成にも情熱を注いでいる。
 その彼と、藝大院の彼のゼミを卒業して各界で活躍する若手クリエイターらが集まったのが今回の「ストップモーション アニミズム展」である。ストップモーションを手がける作家は日本でも古くからいるが、個展、あるいはそれに近い展示会はあっても、ストップモーションとゼミ生とその主宰者というキーワードで20人近い作家が集結した展示会は、おそらく初めてのものだろう。
 
 会場のギャラリーに入ると、出品作家らの作品素材たちが出迎えてくれる。主宰の伊藤有壱さんのはもちろん『ニャッキ!』、ゼミ出身作家らの作品の素材は、人形、砂、粘土、フェルト、そして舞台セットまで、ストップモーションの素材が多彩なことに驚かされる。
 ギャラリー奥では作品上映が時間を区切って行われているが、よほど大急ぎでの来場でない限り、上映と展示がセットで楽しめるようになっている。まず展示を見て上映に移るか、上映を見てからあらためて素材たちを展示で見るか、それぞれ異なる「ストップモーションの宇宙」の旅を楽しむことができるだろう。中には家屋全体を使ってコマ撮りした壮大な作品もある。
 この上映会場では会期中3度、出品作家らによるトークが催され、作家たちがなぜストップモーションという技法を選び、自らの世界を反映させたのかを直接聞くことができる。
 
 さらには、出品作家らが来場者に直接サポートする体験ワークショップもあった。ギャラリーの一部を使った、参加定員5〜6人という小さな規模だが、参加者は素材を手に取って造形し、それをその場ですぐ撮影、動画を再生するのである。
 人形アニメーションの大家・川本喜八郎さんは、自著で次のように書いている。
「どんなに幼稚な人形でも、またどんなにガタガタしたアニメーションでも、自分たちで作った人形がスクリーンの中で動いているのを、はじめて観るとき、それを作った人たちの歓びと興奮は、はかりしれないものがある」「その歓びと興奮がどんなものか味わってしまったら、もう人形アニメーションの魔力から逃げることはできなくなるだろう」(「12人の作家によるアニメーションフィルムの作り方」(主婦と生活社、1980年))
 この「歓びと興奮」がその場で、自身の手で味わえるわけで、参加者はもちろんだが、実はその様子を横で見ているだけでも、ストップモーションという技法がいかなるものかを感じることができるのだ。
 
 かくして、作品上映、作品素材の展示、出品作家トーク、体験ワークショップという4つのメニューでストップモーションアニメーションを楽しむのが今回の展示の最大の特徴であるが、これだけの貴重な機会を、今後どう引継ぎ、ストップモーションを発展させていけばよいのだろうか。
 これは近年増えた美術館などでのアニメーション展示が常に抱える課題にもつながるのだが、作品の完成形(映像上映)ではないストップモーションの素材を展示することの意味、そしてその意義をどう位置づけるかである。
 今回のアニミズム展の場合、モニターなどではなく大きなサイズでの作品上映が併設されていたから、素材と上映との連接はできていたが、たとえば人形などの素材を見やすいように「置く」だけではなく、あたかも作品の一場面を切り取ってきたような展示は、どの程度可能で、どの程度効果的なのだろうか。この展示会でも、そのようなことを意識した展示はあったのだが、原画やレイアウトを展示するのとは違って、作品に実際登場する人形や素材がここにあるわけだから、展示の様態には、まだバリエーションがあるように思われる。
 
 そしてもう一つ、この展示、ぜひ日本各地で巡回してほしい。
 いまのところ巡回の予定はないようなのだが、横浜の展示で使われたギャラリーの床面積は約160平方メートル。上映やワークショップをどう運営するかによるが、もう少し小さなギャラリーでも開催可能なはずだ。
 豊かで奥深く、限りなく楽しいストップモーションの世界を、もっと多くの人と共有したいものである。

内田康夫さん、他界 :「テレビアニメ夜明け前」に立ち会った人

 内田康夫さん死去、びっくりのニュースだが、83歳、もうずいぶん御歳だったことにも驚いた。
 私はこう見えても「浅見光彦シリーズ」のファンで、若い頃に何十冊も読んだが、その作者の内田さんが作家に転向する前にアニメーターだったことは、関西のアニメ史を調査するに及ぶまでまったく知らなかった。
 
 東洋大学中退後、東京でテレビCMのプロダクションに勤めていた内田さんは、そのときのメンバーが大阪で一光社(いっこうしゃ)というプロダクションを設立することになり、内田さんもメインスタッフのような形で移籍した。1957年のことである。
 当時、NHKに続いて民間放送が続々と始まり、テレビCM用のアニメーションの需要が急増したころで、スタジオさえつくればいくらでも仕事があったようだ。しかし大阪は未開の地、そこで内田さんら数名が開拓者として乗り込んだ形である。
 そんな内田さんの元で修行を積んだ老アニメーターたちが、私の取材対象になり、成果は「テレビアニメ夜明け前」(ナカニシヤ出版、2012年)として刊行した。「テレビアニメ夜明け前」というタイトルには、『鉄腕アトム』以前の開拓者らの群像を描いたという意味をこめた。
 本書には、当時一光社が作っていた草野球チームのユニフォームを着た若き日の内田さんの写真や、内田さんはあまり原画を描かずに指導に徹し、作画は修行中のアニメーターの仕事だったというエピソードなどを収録することができた。
 
 もう一つ、浅見光彦シリーズの一つ「しまなみ幻想」という作品でモデルになった旅館があり、テレビドラマ版のロケでも使われたらしいが、かつて私が勤めていた京都精華大学で学んでいた学生の実家が、その旅館だった。
 
 もちろん実際にお会いしたことはないけれど、作品の読者だったことにはじまって、何かと縁のある作家さんだった。
 合掌。

独自の「アニメーション観」を育てたい :東京アニメアワードフェスティバル2018

 http://animefestival.jp/ja/

 恒例の東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)が、一昨日無事終了した。
 私は長編コンペティション部門の一次選考委員を務めたが、TAAFのコンペは今回が事実上初参加なので、過去の傾向とは比較できないという前提ながら、私が審査に関わらなかった短編コンペについて、ここで書いておきたい。
 
 短編コンペは35本。全体として楽しげな、「ほほえましい」作品が多い、という感じである。したがって安心して見られるのだが、正直なところ刺激に乏しく、物足りないと感じたのも事実である。どこかで見たような作品が多い、とも言える。
 エントリの時点でどういう作品が集まったのかにもよる。今年は、短編・長編で合計731本、私が審査した長編は合計14本だから、短編は717本ということになろうか。
 この膨大な作品を審査した一次選考委員の労を多としなければならないが、選び抜かれたはずの35本が、こうも「普通」の作品で占められてしまうと、映画祭としての発信力がいかほどのものかと心配になる。
 私が選考委員だったら、ノミネート35作のうち、半分近くは落選させたかもしれない。
 
 まったく逆の印象をもったのが、昨年の第4回新千歳空港国際アニメーション映画祭である。次のステージのアニメーションは何かをしっかり見据え、それがどう評価されるのかを気にせず(つまりは批判を恐れずに)コンペティション作品群がアグレッシブに選出・構成され、映画祭としての発信力を強く意識しているのである。結果的に、作品上映と観客との間に、ある種の緊張感がみなぎることになる。
 
 今年は長編の審査にかかわったので、その場でTAAFがどのような作品を好み、選考しようとしているかはある程度理解できた。それは、ストーリーがはっきりしていて、あくまでエンタテインメントとして楽しめる作品を好む映画祭、というものである。この「好み」は、何であってもよい。それが、星の数ほどある映画祭の個性、発信力につながるからである。
 しかし、刺激に乏しいというか、きれいにまとまっている、安心して見られる作品を集めるのも問題で、ストーリーものだろうがエンタメだろうが、何らかの「新しさ」「驚き」をもった作品を選び、そこにTAAFならではのアニメーション観が欲しい。
 
 実は、長編の一次選考の場で、テクニックの良し悪しを重視しているのがTAAFのもう一つの特徴だと気がついた。それはつまり、テクニックが高度だから評価する、デジタル時代の現代にあえてアナログ技術にこだわっているから評価する、ということだが、これはほどほどにしたほうがよい。
 20年以上前のフル3DCGなら別だが、テクニックは文字通り手段であって目的ではない。アニメーションという映像言語を使って何を表現したいのかが大切である。
 実際、私が選考委員として参加した長編部門では、選考会議の場で、ある作品をノミネート4作品に入れるか否か、意見が分かれた。絵を動かす技術が稚拙に見えたのがその原因だと思うが、しかし私ともう一人の委員が強く推し、結果ノミネート4作品に入ったその作品『Have A Nice Day』は、本選で優秀賞を受賞した。
 もちろん、確かな技術力があってこそ確かな表現は可能となるが、テクニックを「見せるため」の作品は、表現としてのアニメーションの未来に、意外なほど影響を与えない。それに、テクニックの良し悪しを重視するなら、どの映画祭でも似たような評価軸を使うことになってしまう。
 
 最後にもう一言だけ。
 さきほど私は、私が短編コンペの選考委員だったら半分近くは落選させるかも、と書いた。逆に言えば、半分以上は同じく入選させている、ということでもある。見所のある、また現代ならではの題材に挑戦した作品も少なくなかった。そこはちゃんと評価したい。
 誰もが楽しめる、エンタテインメントとしてのアニメーションを育てていこうというのがTAAFなのだとしたら、それでよい。しかしその前提としての独自のアニメーション観を明確にし、牽引力を大きくするのは、残された課題である。
 今年の短編の出品数が717本だったが、大規模な国際アニメーション映画祭のコンペで、5回目の開催にしてこの「717本」というのは、実はかなり少ないことも意識すべきである。
 

東京アニメアワードフェスティバル2018

 今年度の東京アニメアワードフェスティバル2018が、明日から開催される。
 私は、新作が賞を競うコンペティション部門の「長編コンペティション」の一次選考委員を務めた。その流れで、3月10日、11日の2度、長編のノミネート作上映後のトークイベントに登壇する。
 詳しくは、以下のリンクで。 
 http://animefestival.jp/ja/post/8629/

映画ベストテンからアニメが除外された

●「映画芸術」2018年2月号
 出版社:編集プロダクション映芸
 定 価:1,585円
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0784LFPRN/

 雑誌「映画芸術」で、ベストテン&ワーストテンからアニメを除外するという宣言が話題になった。
 詩人の稲川方人、元文部官僚の寺脇研、演出家の河村雄太郎、脚本家で本誌発行人の荒井晴彦の各氏が本誌で対談する中で、「映画はカメラの前で人間が演じるもの」「デジタルのアニメはカメラがない」(稲川)、「アニメにドウサ(生身の演技)は存在しない」「(アニメには)作り手と演技者の間に戦いがない」(河村)、「最も分かりやすいのは、そこに役者がいないということ」(荒井)という感じで、総じて「生もの」の映画と「加工が自在」のアニメと、という比較を経て「肉体の復権」(河村)でアニメを除外した、というものである。
 やっと本誌を読むことができたので、賞味期限が切れかけた話題だが、書いてみたい。
 
 そもそも、このテの話題は、ずっと以前からある。いまドンと出てきた話ではない。
 それに、事は「アニメ」と「映画」との区分にとどまらず、長編と短編、「映画」の中にテレビ映画は含むのか含まないのか、いやいや大前提として日本で公開された「すべての映画」が対象であっても、一人ひとりの評者はそれを全部見ているわけがない。押井守監督の「すべての映画はアニメである」という名言もある。
 アニメファンの映画に対する積年の劣等感と、最近のアニメ攻勢に危機感を感じる映画人の、これまた劣等感とがぶつかっているという見立てもある。
 これは一つの「問題提起」であって、だからこそ、映画畑の人もアニメ畑の人も議論すべきだ、という意見もあって、これが結論としては収まりがいいようにも思うが、私はもう少し違う印象をもっている。
 というのも、映画畑とアニメ畑が今の状況で議論しても、結局どちらかの「畑」に相手を引き込もうとするわけで、換言すれば「勝ち負け」を決めようとする。これは不毛で、非生産的だ。
 
 ヒエラルキー(hierarchy)という語がある。一般的には「階層構造」という意味だが、生物学では「分類体系」と訳される。
 生物は、綱>目>科>属>種という階層(実際はもっとあるが)で、それぞれの種がどの属や科に属するかが決められている。ヒト(人間)ならば、哺乳綱>霊長目>ヒト科>ヒト属>ヒト、という具合である。
 ところが、この分類は研究者によってしばしば異なり、また時代によって(研究が進んで)その分類も変化していく。
 そこで、分類学者にとって重要なのは、何を基準にしてヒエラルキーを構築し評価するかという点であって、この限りでは、どの種がどの科に属するかという以前に、そのヒエラルキーの構築が議論の対象となる。
 
 もちろん生物学と映画とは一緒くたにできないが、たとえば、「映像」の下位分類に「静止画(写真など)」「動画(動く映像)」があり、「動画」の下位に「実写」と「アニメーション」、「アニメーション」の下位に「2Dアニメ」「フル3DCGアニメ」という具合にヒエラルキーを構築する。重要なのは、その分類が「何をもって成されたのか」を明確にすることである。
 私は職業柄、こうした分類を行うことがあるが、難しいのは、生物のように一方向に分類できない点で、上記のような技術的な分類にとどまらず、メディア(フィルム、テレビ、ビデオ、インターネットなど)による分類、制作目的(エンタメ用、教育用、記録用など)による分類などが複雑に絡み合うからである。
 ただ、何がどこに属するのかよりも、どういうポリシーで分類したのかを議論すべきなのは他の分野と同じで、その意味では、「そこに役者がいない」からアニメを外したというのもアリなのである。
 そして、実写映画の中にアニメが挿入(合成)されていることもあれば、逆のこともある。そうした場合、どうするのか。実写が主体であれば対象に含むのか、とすれば「主体」をどう規定するのか、はたまた「全編実写」でなければダメなのか、これらを議論すればよい。
 
 ところで、本誌発行人にして脚本家の荒井晴彦氏だが、氏には一つの伏線がある。昨年のちょうど今頃に開催された「あきた十文字映画祭」のパンフレットに、氏は次のような一文を掲載した(全文)。
 
「アニメの『君の名は。』の興収が200億円を越えて、AERAが『黄金期から低迷へ、そして日本映画は再び絶頂期へ』という特集をやっていた。商売がうまく行ったという特集だ。国会は改憲派が2/3を占め、映画館はオタクに乗っ取られてしまった。『君の名は。』を観て泣いている人は、映画史上の名作を観たことないんだろうなと思った。それでも、『この世界の片隅で』(ママ)が入ってると聞き、真っ当な客もいるのかと思って観に行った。相も変わらぬ戦争=被害映画、これはダメだと思った。庶民に戦争責任は無いのか。戦争で手を失った田中裕子が天皇の戦争責任を言う映画があり、戦時下の日常を描いた実写映画があり、加害を描いた映画もあったのに、もう忘れたのか。いま、客が一番悪い。」
 
 昨年、この文章がネットで拡散されて炎上に近くなった。私は昔から、「映画芸術」だけではなく「キネマ旬報」や「イメージフォーラム」などの映画誌で発言する荒井氏を承知していたが、さすがにこの「客が一番悪い」という一文は、本人の直筆(映画祭事務局の編集等はナシ)なのであれば、よほど虫の居所が悪い時に書いたのかと思った。
「庶民の戦争責任」など、傾聴に値する件はある。しかし「『君の名は。』を観て泣いている人」は、氏の意中にあるような「映画史上の名作」を見ても、まあ泣くことはないだろう。もちろん泣かなくとも問題ないし、はっきり言えば「映画史上の名作」を見る必要もない。大衆文化とはそういうものだし、「そういうもの」だからこそ現代ならではのテクスチュアズが紡ぎ出され、新しい文化が創生されていく。そして常に、時代に抗う流れは存在し、我々は彼らに尊敬と畏怖を念を向ける。
 今回の騒動、事の推移を見守るしかないが、ここまで書いてきて、「これは、べつに大した問題でもなかったな」と、私は結論づけた。ただし、私個人としては、ものの所属の是非よりも、ものを分類する考え方、方法を議論し究明することにはこだわりたい。

『宇宙戦艦ヤマト』を問い直す

●「「宇宙戦艦ヤマト」の真実 −いかに誕生し、進化したか」
 著 者:豊田有恒
 出版社:祥伝社新書
 刊行年:2017年
 定 価:842円
 
 私は「ヤマト」世代よりも少し若いのだが、テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には強い思い入れがある。テレビアニメシリーズ第1作で「SF設定」豊田有恒氏による本書は、読み始めてたちまち引き込まれる筆力で、「ヤマト」誕生までの道筋が克明に描かれている。
 ただ、「ヤマト」について語る際、これは豊田氏もそうだし、誰が語ってもそうなってしまうのだろうが、プロデューサー・西崎義展の存在を避けて通れない。
 そうなると、2年前に出版されて話題になった次の本に触れることになる。
 
●「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気」
 著 者:牧村康正・山田 哲久
 出版社:講談社
 刊行年:2015年(講談社+α文庫:2017年)
 定 価:1,620円
 
 タイトルのとおり、西崎義展という稀代のプロデューサーの、よく言えば辣腕、悪く言えば傍若無人な仕事ぶりと人生を描いた評伝で、その「狂気」溢れる内容は圧倒的だった。
 
 日本のアニメ史の中で、『鉄腕アトム』と『宇宙戦艦ヤマト』の存在感は文字通り別格で、良し悪しはそれぞれの専門家の見識次第だとしても、それらがなければ「その後の日本アニメはない」と言い切ってもよい作品である。
 その意味では、『機動戦士ガンダム』をどう連接させるか、そして『新世紀エヴァンゲリオン』をどう位置づけるか。
 『エヴァ』でいえば、「社会現象をもたらした」と言われはするけれど、どちらかというとアニメ周辺の知識人たちの盛り上がりのほうが目立ち、『ヤマト』のように観客(当事者)がブームを作り上げた状況とは質的に異なる。加えて、『ヤマト』の頃は当事者以外はほとんど全員がアニメに無理解な「敵」だったが、『エヴァ』のころは、たとえば「おたく」に対する偏見があったとはいえ、アニメブームを体感した新しい世代が社会の中心領域を占めはじめており、その時代性はまったく違う。
 
 私は常々、日本のアニメ史を本質的に分析し論じるためには、これまでにない新しい理論の構築と提案が必要ではないかと考えている。
 90年代以降、ポスト・モダニズムカルチュラル・スタディーズなど欧米由来の学問体系に依拠する識者らが盛んにアニメ分野を題材にしてきたが、それらの成果にいまひとつ食いきれない印象が残っただけではなく、活躍していた彼らでさえ、しばらくはアニメに取り組みつつも、やがて離れていく人が多いのは、やはり彼らが依拠する既存の理論では、日本のアニメを捉えきれないからではないのか。
 
 ここで紹介した2冊は、かたや「歴史の証人(著者・豊田氏の言)」による、かたや当事者の周辺にいた人たちによる証言集であり、なぜあの時代に『ヤマト』が誕生し大ヒットしたのかという問いに、時代性をふまえて言及したものとは言い難い。
 しかし同時に、そうした問いに、つまりは『宇宙戦艦ヤマト』を「アニメの現在」から問い直すためには、どうすればよいのか。
 貴重な当事者達の証言を、活かさなければならない。

アニメーションの美術館展示とは :国立新美術館「新海誠展」

 フェイスブックで先に書いたのだが、少し加筆しつつ、こちらでも。
 国立新美術館での「新海誠展」、昨日、すべりこみで見てきた。美術館でのアニメーション展示の難しさは、やはり感じたが、いろいろな制約があるだろう中で、比較的要点を絞った内容にまとまっていたように思う。
 
 いつごろからか、美術館での「アニメーション」展が行われ、しかもそこに大量の原画、レイアウト、背景画などが展示される方法が一般的になった。
 おそらく、2006年の「ディズニー・アート展」、2008年の「スタジオジブリ レイアウト展」あたりのインパクトが、その流れを確固たるものにしたと思われる。
 一方で、アニメーションは上映(放映)される映像が完成形であり、そのプロセスに至る「完成形ではない」原画やレイアウトの展示が、美術館でのアニメーション展示の主流になってよいものか、という声を私はアニメ制作者の意見として聞いたことがある。このあたりが、アニメーション展示の難しさである。
 
 それらを前提として、今回の新海誠展での印象をいくつか書くと、まず、展示の順路。入場口と退場口にそれぞれ新海作品のダイジェスト映像を配した演出は面白かったが、それ以外は、新海監督の系譜を順にたどるように、『ほしのこえ』から『君の名は。』に関連する展示が並んでいた。
 それよりも、たとえば最初の展示室で新海監督の独自性をクローズアップして紹介し、あらためて第1作『ほしのこえ』からたどっていく、という形にしてはどうだったか。そのほうが、なぜ新海誠というアニメ監督がここまで注目されたのかを端的に説明することができるように思う。つまり、系譜をたどるのではなく、テーマを定めてたどるのである。
 きわめて意地悪な書き方になるが、現在の新海誠監督は、「しょせん1本が大当たりしたところ」「実質的なファン層は、まだまだマニアックの域を出ない」という捉え方を排除すべきではない。
 
 今回展示を見て、あらためて新海監督の系譜にはいくつかの転換点があることを認識した。これは、画家や小説家を含めて、作家という立場の人にはしばしばある。
 一方で、彼が修正原画やレイアウト用紙に小さな字でびっしり書き込んでいる内容に頻発する「L/O」「BG」などの意味は、一般の鑑賞者にはすぐには通じないと思うが、それはそれで面白いと思える展示になっていたかどうか。
 そして、これは知人の研究者から指摘されて私も同じ感想をもったのだが、多くのファンが「新海節」として認識しているであろう緻密極まる背景画の展示が、ロケハンの写真と実際の画面との比較など、わかりやすくはあったが、背景画それ自体の展示としては、実にあっさりしていた。
 そんなふうに考えていったときに、ではアニメーションはどのような美術館展示がありうるのか、という点に思いが至る。
 
 私は基本的に、フィルムという完成形に至る前の「調理段階」の原画やレイアウトをそのまま見せるやり方は、アニメーション展示としてベストではないと思っている。
 しかし今回の新海誠展の原画やレイアウトの見せ方には、今後の美術館におけるアニメーション展示の在りようを議論するヒントがあったように思う。それが何かは、また別の機会に。