映画のアイデンティティ

 昨日、衝動的に映画『憧れを超えた侍たち』を見た。今年3月のWBC、野球日本代表選手らが選抜・招集され、アメリカとの決勝戦を制して世界一になるまでのドキュメンタリーである。私もWBCには「野球はこんなにも奥深く、筋書きのないドラマになり得るのか」を思い知らされ、感動した。しかし本作は、結論からいうと、映画としては物足りなかった。
 要するに、テレビ放送用の映像と、舞台裏をハンディカメラでスタッフが撮っていた映像を編集しただけで、この映画のために新たに撮った映像はたぶんゼロ。テレビ用の映像をスクリーンで上映したら、ここまで画が荒れるのかを見せつけられた。
 それに、上記のような編集方針なので、相手方の舞台裏がまったく盛り込まれていないし、日本代表監督や選手、スタッフらから当時を回想する映像なども皆無で、ドキュメンタリーらしい緊張感に乏しかった。
 だからこそというべきだが、現代テクノロジーとか観客の行動・嗜好によって、映画を取り巻く環境がどんなに変わろうとも、映画は映画としてのアイデンティティを失わないだろうと、強く感じた。
 このことは、生成AIの発達で、特に自主制作アニメーションの作り方から審査方法までが大きく変わるのではないかとの最近の議論というか懸念をどう考えるかにもつながる気がする。
 今年から来年、私自身いくつか関わるであろうアニメーション映画祭での審査や鑑賞を経てみないとわからないが、テクノロジーと、そのテクノロジーの恩恵を受ける「表現」とをつなぐのが生身の人間である以上、本質は変わらないのではないかと思った。