長編アニメ『トラペジウム』を見て
今年の新千歳空港国際アニメーション映画祭で特別上映された長編アニメ『トラペジウム』 今年5月からの一般公開では見逃してしまっていた。ちょうどよい機会だと、新千歳で鑑賞したので、その印象を書いておく。
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一般公開前に『トラペジウム』というタイトルを眼にしたとき、私は即座に少年時代の思い出がよみがえった。
オリオン座の大星雲の中にある四重星が「トラペジウム」と呼ばれる。望遠鏡があれば観望可能で、少年時代に天体観測が好きだった私は、小型の望遠鏡を使って見つけ出そうとしていた。実際に見えたかどうかは記憶にないのだが、トラペジウムという不思議な語感は記憶に残り、本作の公開情報を見て思い出したのである。
性格や背景がまったく違う4人の少女が主人公、リーダーとなる一人が主導してアイドルグループを結成する、というストーリーのベースからは、等身大のキャラクターによる青春映画を予感させる。
しかし、本作で描かれたのは、日本の「アイドル」というサブカルチャーにあって、そのアイドルを目指す一人の少女の行動と、その行動がもたらす残酷さだった。一人の少女が考えたことと、それがもたらす結果とのギャップが露わに描かれる。そして、登場人物の年齢とか目指すところとかに関係なく、人間の本質や、その人間をとりまく社会の歪があぶり出されたのである。
一方、鑑賞者の中で賛否が分かれたとされる「10年後」の大ラストでは、作中の随所でちりばめられた伏線がことごとく回収されている点を中心に、私は好感をもった。
特に印象的な描写は、カメラマン志望の少年である。4人の「トラペジウム」のうちの一人とつながりのあった彼は、本編での登場シーンは決して長くないが、「10年後」にはカメラマンとして大成した姿が、これも短く登場させながら、作中の「10年」という時間の流れと変化を表現することに成功している。
つまり、本作の主人公は「トラペジウム」ではなかった。トラペジウムやその周辺の登場人物たちを取り巻く状況(シチュエーション)そのものが「主人公」に仕立てられていたのである。ここに、本作の新しさを感じることができる。
個性の違うキャラクターがシチュエーションに耐え切れず感情をむき出しにするシーンはあるが、それ自体の描写の熱量は抑制されており、その絶妙なバランスは見事だった。
第11回新千歳空港国際アニメーション映画祭での特別上映枠で本作は上映され、その上映後に舞台に立った本作の橋本渉プロデューサーは、「ここからみなさん(観客)の顔を見ていると、見てもらってこそ「作品」になると感じる」、そして「いろいろな意見が嬉しい」と語った。
作品は不特定多数の観客の眼の前に出てこそ「作品」になる、というのは私の自論でもある。
私は本サイトの別記事で、今年の新千歳フェスのコンペティション全般についての印象は書いた。しかしコンペ以外のプログラムでいえば、『トラペジウム』を見ることができて本当によかったと思った。