来年度以降はどこを目指すか ―― 第3回新潟国際アニメーション映画祭を見て(後編)

 前編に引き続き、第3回新潟国際アニメーション映画祭のコンペティション部門について述べる。

 コンペ部門には、公式パンフレットによれば、28の国・地域から69本の応募があったという。これは第1回(21本)を大幅に上回る第2回の49本をさらに上回るもので、何をおいても喜ばしい。

 一次選考を経て本選に入ったのは12本で、このうち日本作品は『ルックバック』と『化け猫あんずちゃん』。偶然だろうが、昨年11月の第11回新千歳空港国際アニメーション映画祭の長編コンペに入った日本作品2本(他に海外作品4本)と全く同じである。

 新潟フェスでのコンペ海外作品は10作品となるが、これらは昨年開催の新千歳、そしてひろしまアニメーションシーズン2024の長編コンペ作品との重複がなかった点は興味深い。

 一方で、新潟の直前に開催された東京アニメアワードフェスティバル2025の長編コンペとは2本が重なった。『クラリスの夢』(G・ビカーリョ&F・グティエレス監督、2023年、ブラジル)と、『ペリカン・ブルー』(L・チャキ監督、2023年、ハンガリー)である。

 新千歳、ひろしま、東京を比較すれば、最もエンタメ性が強いのが東京である。「エンタテインメント作品のコンペにしていこう」(押井守)と表明し始まった新潟からすれば、本選作の重なりは必然かもしれない。実際、『ペリカン・ブルー』は、民主化直後のハンガリーで実際にあった「事件」を題材にしながら奇抜なエンタメ性をたたえた快作だった。

 全12作品を総覧しての印象は、前年と同じく、69本の応募作から優れた順に12本を選んだというよりも、選考委員4人によるバランス感覚、また逆に委員それぞれが強く推す1本を中心としながら、といったところから選ばれた感触があった。

 

 前年まではあえて指摘しないようにしていたが、今回の12本をみると、新潟はアニメの未来を長編にどう託そうとしているのかが、はっきりしない。しかしこれは、必ずしも批判を述べているものではない。

 つまり、鑑賞者のアニメーション技術の理解、アニメーション史への造詣の深さ、批評性、そして1アニメファンとしての好み、これらが交錯し、賛否が分かれそうな作品が多かったのである。これが選考委員や映画祭主催者の意図的なものであったなら、コンペティションは成功したといってよい。

 たとえば、『口蹄疫から生きのびた豚』(ホ・ボムウク監督、2024年、韓国)は、終始明るさも希望も見えない内容で、不愉快さしか感じない観客も多かったと思うが、では本作品を実写で制作しようとすれば、おそらく不可能である。その意味で、アニメーションならではの表現を貫いたのが本作だった。

 また、境界賞(アニメーションの世界に進化を与える作品)を受賞した『バレンティス』(G・コロンブ監督、2024年、イタリア)は、1940年にイタリア領サルディーニャで起きた実話をもとにしたドキュメンタリータッチの作品である。ライブアクションを使ったアニメーションでありながら随所に抽象的、造形的な表現があるが、それだけに好みが分かれるだろう。新潟独自の境界賞の受賞は、個人的にはホッとした。

 傾奇賞(従来の価値観に捉われず、斬新で新しいものに挑戦し、創造していく作品)を受賞した『かたつむりのメモワール』(A・エリオット監督、2024年、オーストラリア)は、私はストーリーにもキャラクター表現にも若干のくどさを覚え、制作者の思い入れが強く出過ぎた印象をもったが、比較的誰にでも楽しめる作品である。そのため、傾奇賞の受賞は意外だった。

 受賞はなかったが、『ボサノヴァ 撃たれたピアニスト』(F・トルエバ&J・マリスカル監督、2023年、スペイン/フランス/オランダ/ポルトガル)は、1970年代、ライブツアー中に失踪、行方不明になったピアニストの謎を追うドキュメンタリーである。構成や流れをもう少し洗練させる必要があると感じたが、記録映画としても音楽映画としても魅力があり、吹替版を制作すれば日本でも興行可能ではないかと思った。

 そしてグランプリは、『ルックバック』である。

 本作が優れた長編だという点には1ミリの異論もないが、グランプリ受賞は、率直にいって面白みを感じない。それに、第1回、第2回大会のグランプリ選出には、新潟フェスの独自性を構築していこうという意欲が感じられたが、『ルックバック』のような優れた作品であっても、グランプリ受賞は違う意味を帯びてくるところに、コンペティションの難しさを感じた。

 

 私は前年大会の論評で、「国際映画祭がその地歩を固めるには3~4回の開催が必要」だと書いた。第1回大会の論評でも同じことを書いた。

 そのぶん、今回の第3回に注目していたが、押井守監督による「そこ(日本のアニメ界)には批評もなければ、評価もない。今回はそういったものを打ち破る契機に」という発言が新潟映画祭のポリシーの一つとして継承されているのかどうかが、あらためて気になった。

 そして、「萬代橋の国境化」である。

 遠い昔、広島国際アニメーション映画祭の第3回大会(1990年)が開催された際、あるアニメーション作家が「商業系アニメと芸術系アニメ、この両者間には無言の対立、溝が、この国にはある。それは、我々の心に刺さったトゲのようなものだ」(主旨)と述べた。制作者ばかりではなく、ファンもこの両者を別のものとして「分けたがる」のである。

 時代は流れて、そんな区分けはくだらないと考える若い企画者らが奮起し、壁を取っ払おうとして新千歳空港国際アニメーション映画祭が始まり、今も新千歳はこのポリシーを維持し続けている。

 新潟はエンタメ性を重視しようとしているようだが、「エンタメとは何か」の解釈は一様ではないし、時代によって変遷する。何がエンタメなのか、アニメによるエンタメの未来は何か、ここに新潟の発言力を発揮しなければならない。

 萬代橋が「国境」のようになり、古町エリアが浮いてしまったような今回、おそらく古町エリア中心の参加者と、万代エリア中心の参加者とは、前回まで以上に、新潟映画祭に対してまったく違う印象をもったのではないか。

 それが意図的なものであるなら構わないが、長年、国内外の映画祭を見てきた私からすれば、イベント上映やトークの量を増加させた今大会の新潟は、大切な「新潟ならでは」という特性を維持し、ひいては発展させることができたのかに不安を感じた。

 それが杞憂なのかどうか、来年は、できるだけ多くのファンに、新潟に来てほしい。

 今回、私はいつものとおり、毎晩の飲食店やバーで、店員や来客に映画祭のことを聞いてみたが、2年前から知名度はさほど変わったとは思われなかった。

 地元の観客を増やすためには、開催時期にまで手をつける必要があるのではないかと思うが、遠方からでも、できるだけ数多くのアニメ関係者、ファン、ジャーナリストに参加してほしい、これを強く感じた大会だった。