「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか

 
 ●「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか
  著 者: 大塚英志大澤信亮
  出版社: 角川書店
  刊行年: 2005年
  定 価: 743円
 
 (書籍画像省略)
 
 刊行から早や3年が経ち、さすがに話題にのぼることも少なくなったが、その内容、もしくはその内容から導き出される視点は、これからも議論する価値のあるもので、遅まきながら、ここで取り上げておきたい。
 
 大枠としては、日本の漫画・アニメーションの表現様式の起源を戦前から戦時中の「戦時下」に求め、戦後の、主に漫画におけるさまざまな変節点を分析、そして現在、とりわけ刊行時に顕在化していた国家や自治体における日本の漫画・アニメ称揚傾向に対して厳しく批判する、という流れである。
 その上で、海外における「ジャパニメーション」人気や、国内における活況は幻影に過ぎない、という結論に向かっていく。
 
 私自身、一般のアニメファンであり、最近では研究者・文筆家として発言し、さらには外務省(つまり国家)関連の事業に関わって海外でのアニメ紹介に手を染めているという立場でもある。
 
 意外に注意深く取り上げられていないのだが、例えば国家によるアニメへの関わりというのも、実に多くの場面が考えられる。
 作品制作費の助成なら、商業系スタジオへの助成と個人作家への助成とではすいぶん意味が違うし、日本作品/海外作品をそれぞれ紹介するというコンテンツの交流、人材の交流(特に海外では「日本で仕事をしたい」と考える人材は決して少なくない)、国際映画祭等のイベントへの助成、教育・研究機関への助成、観光資源としての開発、著作権管理の音頭とり、そして国際交流基金(外務省所管)やジェトロ経済産業省所管)などの機関による、海外におけるアニメ事情の情報収集・分析・統計処理などに至るまで、ちょっと考えただけでも、相当に多岐にわたる。
 にもかかわらず、「ジャパニメーションうんぬん」という議論は、当時から現在まで、ステレオタイプな議論に終始している点が残念である。
 
 とりわけ、本書を読んでいてガッカリしたのは、本書の中程を過ぎた190ページに書かれてある、以下のような文言である。
 
「国が何事かをアニメやまんがに貢献したいのであれば、それは唯一、「さっさと手を引いて放っておいてくれ」ということです。つまりぼくたちのジャンルは今後とも「国から自立し、自由であるべきだ」ということです。」
 
 私はこの一文を読んで、一気に萎えてしまった。ようするに、この一文を書きたいがために、こんな大部(全287ページ)の本を書いたということが見えたからである。
 上にも書いたように、「国の関わり」と言っても、それは極めて多岐にわたって想定され、それぞれの関わりの在りよう、利点と問題点を個別に議論する必要がある。
 「国が関わることは胡散臭い、迷惑、検閲されたらどうするんだ!」と考えるのはべつに構わないが、その価値観を、アニメに関わるすべての人々や事象に共有化しようとするなら、これこそ私は危険な考え方だと断じてはばからない。
 
 具体的な例を挙げよう。
 数年前、関東地方のある文化関連施設で、アニメファンなら誰でも知っているアニメーターと、彼と関わりのある出版社の編集氏との座談会があった。
 そこで編集氏は、最近、国がアニメや漫画の助成に乗り出していることを取り上げ、「簡単に言えば、放っておいてほしいんだよ。自分たちは、国からもらうカネなんて1銭もいらない。自分たちでちゃんとやっていけるから」と誇らしげに語り、アニメーター氏もそれに賛同していた。
 この時私が思ったのは、「それはそうだろう、あなたたちのように大御所になったら、助成なんていらないよ。けど、助成を必要としている人もいるのだから、こういう公の場でそんな発言をするのは、品がないよね」ということだ。
 つまり、アニメを例にとれば、まだ無名の作家たちにとって、何よりもまず作品制作そのもの(予算・設備面)と、それを発表(上映、出版、DVD発売等)するための手段の確保が切実なのだ。ここに、国の助成(予算的助成か、発表場所等の提供か、いろいろあり得る)があれば、それを踏み台として本格的な作家への道を歩むことができそうな人材は、インターネット等の媒体が発達した現在でも、決して少なくないはずだ。
 国家が関わればさまざまな制約がある−−。確かにそれはあり得る。
 しかし、欧米での文化関連の国家助成における「制約」を挙げてみれば、「常時活動している作家(団体)であること」「人種・民族差別的な表現に抵触しないこと」「先駆的・実験的な創造活動であること」などの条件が並んでおり、税金を使って特定の作家や団体を助成することを考えれば、極めて真っ当なものである。
 こうした視野を踏まえた上で、日本で国家が助成するということの当否を問い、それを制度として健全に育成していくためにはどうすればいいのかという議論が必要なのであり、「国家」と聞いただけでジンマシンができるなどという素朴な発想に収まっている限りは、それこそ日本のアニメは育っていかないのではないか。
 
 実は、こうした国家的な助成が日本のアニメ界でどうあるべきかという研究は、少なくともアニメーション研究プロパー側からは、まだまだ深まっていない。
 このことは、専門家を標榜する人たちが、例えばマスコミから「国家って、どうよ?」と疑問を向けられたときに、ちゃんと答えられないということを示しており、これこそが大きな問題だ。