アニメージュ オリジナル

 
 ●「アニメージュ オリジナル」第1号
  出版社:徳間書店
  刊行年:2008年9月
  定 価:1300円
 
 
 
 本当は第2号が出てから取り上げようと思っていたのだが、なかなか出ないので(そろそろ出ているとは思うが)、書いてしまおうと思う。
 大人向け、すなわちアニメに関するリテラシーを相当に有するマニア向けの「アニメージュ」として創刊されたと察する本誌、『マクロスF』と『機動戦士ガンダムOO』を2大特集として、アニメの現在形を、主に映像造形に着目する形で捉えている。
 たとえば、作画解説にあたって原画をひもとき、絵コンテやレイアウトの重要性を強調するなど、これは疑いなく1970年代にアニメに開眼し、ひいては80年代にそのことにこだわった「オールド・ファン」の視点だ。
 私の記憶では、80年代後半あたりから、コミケで売られている同人誌などに、当時人気のアニメーターたちの原画を満載し、「作画パターン」を詳細に解説する内容が出ていたが、広く言えば、その延長線上にある雑誌である。
 
 しかし、私のように中途半端な「アニメ・ウオッチャー」からすると、結局のところ、こうした内容の定期刊行物の行き所はどこにあるのかと考えてしまう。
 すなわち、アニメを本質的に捉えようとしているのか、アニメ批評の本来形を示唆しているのか、マニアたちの渇望に応えているのか、新たなファン層を発掘しようと啓蒙しているのか、そのあたりの「落ち」である。
 正直なところ、私はたぶんついていけない。その私はといえば、文字通り半端モノであって、こういう雑誌の編集に関われる生粋のファン、ライターの知人は複数いるのだが、その人たちからは、「お前は、アニメーションのことは知っているが、アニメのことは知らない」と、お叱りを受けているのだ。
 その意味では、作品の完成形に至るまでの、単なる「メモ」「原材料」でしかない絵コンテやレイアウト、原画類の存在価値と読解能力をここまで求められるアニメというのは、他の芸術・芸能分野と比較して、著しく特異的といえるのかもしれない。
 
 このことは、実はそうした「メモ」「原材料」の読解能力を求めることが、アニメを語るための必要条件なのか否かという、アニメ批評の本来的な位置づけを考えることにも直結する。
 東浩紀さんが、アニメ批評の在りようについて時々言及していて、記憶で書いてしまって申し訳ないが、最近もそれに言及しているのを眼にした。彼に言わせれば、とにかく新人とか異分野の書き手がアニメ批評を手がけたとしても、枝葉末節の事実関係を叩かれるだけで、批評の在りようという本質的な立脚に至れないことを嘆いていた。
 しかし、この「アニメージュオリジナル」を読みこなし、その価値を認めるような人たちからすれば、まさに東さんがいうような「枝葉末節」のリテラシーがあるかどうかが問われているということなのだろう。
 
 ただ、東さんが書いておられた内容でもう一つ気になったのは、(これも記憶で書いてしまうので不適切な引用であればお許しいただきたいが)、「アニメ批評は、適切な読者が出てくるまではやるべきではない」という主張である。
 批評家が先か読者が先かという問題に転化すれば、私の認識からすれば、これは疑いなく批評家が「先」である。いやしくも公に書かれるものであれば、その「公」が商業誌かウェブかも同一なのだが、批評は批評である前に「読み物」である。読み物が読み物である意味、大雑把に言えば「面白さ」を刷り込むことが、批評家の第一の役割だと思う。認識が古いといわれるかもしれないが、私はその価値観を変えることはできない。
 
 「アニメージュオリジナル」で披露されている内容を「知っているか知らないか」に関係なくアニメを語ることそのものの価値観を提示できるか否かを考えることが、実は本誌を手に取る際の最大の問題意識なのではないか。