ひろしまアニメーションシーズン2024に参加して(後編)

 ひろしまアニメーションシーズン2024、リニュアル後の第2回アニシズについて、前編に続き、上映作品や受賞作について述べる。章番号は前編からの連番になっている。

4)どんなコンペ作品が集まったか
 カンヌ国際映画祭に「ある視点」というカテゴリがある。作品がもつ独創性や斬新さを作品ごとに注目し、その一点(ある視点)で評価しよう、というものである。
 アニシズでの短編部門カテゴリは、そういう意味あいもあるのかなと感じてきた。
 しかし、前回アニシズでは、「物語の冒険」にしろ「寓話の現在」にしろ、どのカテゴリに入っていても作品から受ける印象というか、作品のマッチエールに大きな違いが感じられなかった。それは私の鑑賞力がないからだ、と言われれば万感胸に迫るが、前回は、一次選考委員らの共通の「アニメーションはこうでなければならない」という主張が強く感じられ、異なる視点、つまり「「ある視点」の複数の集まりによる選考結果」という多様性、面白みが表出していなかったように思った。
 それが今回は、だいぶ印象が変わった。見ていて、多様性に加えて大衆性も感じられ、グラフィックの力強さとか、ストーリーそれ自体の面白さなど、多くの鑑賞者がアニメーションを魅力的に感じるための基本的な特性をもつ作品が少なからず加わっていた。
 特に優れた作品が集まったと私が感じたのは「社会への眼差し」部門だった。ある水泳選手の視点と立場から民族差別の問題を扱い、この部門のカテゴリ賞を受賞した『バタフライ』(F・ミアイユ、フランス)、ロシア・ウクライナ戦争の末に難民問題が深刻化しているポーランドベラルーシとの国境で起きていることを素材にした『森には人々がいる』(S・ラチンスキー、ポーランド)など、ドキュメンタリータッチの作品から受けた印象は深く心に浸透した。
 そして、ハゲ治療のために故郷から離れてイスタンブルへ向かった3兄弟を主人公にした『美しき男たち』(N・ケッペン、ベルギー)は、とかく議論が避けられがちな「男らしさ」の本質というか儚さについて問いかけた作品で、これが短編部門全体の最高賞「グランプリ」を受賞した。
 「光の詩」部門、これはカテゴリ名を見ただけではどういうジャンルの作品が集まったのかがよくわからないが、公式パンフによれば「ビジュアルによる誌的表現として優れている作品」である。結果的には、この部門に集まった作品の多様性が際立った。別な言い方をすれば、「誌的表現」とは言い難い作品も含まれていた。とりわけ『ゲロゲロ・ショー』(S・エリヤット、インド)は、ジャンルとしてはほとんど「ショートギャグ」で、観客席は笑いにつつまれ、本作が短編の観客賞を受賞した。
 「日本依頼」部門でグランプリを受賞したのが、近年『プックラポッタと森の時間』など、屋外で撮影された人形アニメーションの秀作を発表している八代健志の新作『春告げ魚と風来坊』である。これも屋外で撮影された、迫力満点の作品だった。
 「環太平洋アジアユース」部門のグランプリは、自身の整形体験をモチーフにした『私は、私と、私が、私を、』(伊藤里菜)だった。日本の若い作家がよく取り組む自己の世界が題材であり、とかく内省的になりすぎて観客に伝わりにくい仕上がりになることが多い中で、本作は「私」の表現のグラフィックに優れ、他の類似作から抜きん出ていた。
 
 そして、観客投票によってグランプリが決まるという点で注目の長編部門である。
 長編部門で本選に入ったのは、『アダムが変わるとき』(J・ヴォードロイル、カナダ)、『シロッコ風の王国』(B・シュー、フランス・ベルギー)、『プラスティックの白い空』(T・バーノーチュキ&S・サボー、ハンガリースロベニア)、『ガラス職人』(U・リアズ、パキスタン)。
 玄人受けしそうなのが『アダム』、日本の、それも伝統的な「アニメ」好きの人が推しそうなのが『シロッコ』、パキスタンの長編アニメーションというところにみんなが驚き、かつストーリーがわかりやすい『ガラス職人』、そして私個人が一番気に入ったのが100年後の地球を舞台に環境問題から人生の意味までを掘り下げた『プラスティック』だった。
 観客投票でのグランプリだったら、まあ『シロッコ』だろうと思っていたら、その通りになった。 

5)成果と変化、疑問
 ひろしまアニメーションシーズンは、今回がまだ2回目である。前身の広島国際アニメーションフェスティバルとの比較は可能だし、またどうしても比較されるだろう。
 最も注目すべきコンペの出品数は、第1回アニシズが2149作品に対して、今回は97の国と地域から2634作品(うち本選作品は76作品)で、着実に増加した。この出品数は旧広島フェスと同水準である。これは安堵できる成果だった。
 アニシズ第1回と第2回の比較は可能でありながら難しいのは、第1回は2022年開催で、コロナ禍のど真ん中にあったという点である。実際、前回は海外ゲストが非常に少なく、また交流系のイベントが組めなかった。
 今回はコロナ禍も終焉し、交流系イベントが数多く組まれたので、観客数は確実に前回を上回るだろう。特に、旧広島フェスの時代と同じだが、観客数は各上映やシンポジウム、トークそれぞれでカウントされ集計される「のべ人数」なので、交流系イベントが増加した今回の観客数は間違いなく増える。
 また、国際映画祭の観客は2種類に大別される。コンペを中心に参加する観客と、特集上映やイベント系を中心に参加する観客である。今回でいうと、『窓ぎわのトットちゃん』『BLUE GIANT』が特別上映された。また、話題作『ルックバック』の押山清高監督が来場し、トークを行った。コンペをまったく見ず、イベント系をピンポイントで見るだけの観客も多かったはずだ。
 こうしたプログラム構成は、アニメーションの国際映画祭観客の裾野を広げ、また事業としての収益性を高めるために有効な手段だと言える。
 
 しかし、最終日の授賞・閉会式に出席した私は、疑問を感じずにはいられなかった。つまり、式の観客が少ないのである。
 旧広島フェスの授賞・閉会式は、約1200人収容の大ホールが満席、とまではいかないものの、7~8割は埋まっていた。旧フェスは招待者が非常に多かったので、単純比較はするべきではないかもしれないが、今回は、ざっと見渡したところ、定員の半数に遠く及ばなかったように思う。実は、コロナ禍での第1回も同じだった。この点は、第1回と違って移動制限が解除された今回でも、大きな変化はなかった可能性がある。
 授賞・閉会式は、もちろん受賞作が発表される場だし、また今回は上映と審査が同じ会場で行われる「公開審査」が復活したので、受賞作は出品者を含めてそのときまでわからない、エキサイティングな場である。
 したがって、授賞・閉会式の観客が、映画祭全体動員数の「のべ人数」ではない、中核プログラムのコンペ観客の「実人数」に近く、その映画祭の実力の一端が反映されるのではないかと私は感じている。

 第1回と比べて今回の第2回では、短編コンペのカテゴリがかなり変わったのは、運営側が第1回の結果を分析し、再検討した結果だろう。ひとことで言えば、だいぶわかりやすくなった。
 2634作品から選ばれた76作品は、前回と同じ一次選考委員らが選んだ。これは、作品の出来の良い順に選んだというわけではなく、あらかじめ何らかの評価軸を設定した形跡がうかがえた。たとえば「自然と人間」、たとえば「人間の内的世界の一般化された表現」などである。外れているかもしれないが、なんだかよくわからなかった第1回と比べて、今回は私なりにわかりやすさを感じられたのは確かである。その意味では、今回は旧広島フェスの空気に、少しだけ戻った気がした。
 その中で、「環太平洋アジア」コンペは、今回は学生作品に限る形になったのが大きな変化だが、対象地域は日本など東アジアから北中南米オセアニア、さらにはロシアまで広がっている。これで、「従来からのヨーロッパを中心とした短編アニメーションの価値観から変えていきたい」という意図があるとすれば、それがどの程度成功したのかを知りたい。
 一次選考委員が固定されている限り、どのようなカテゴリを設定したとしても、大きな変化は生じないように思う。それを「映画祭の質を一定に保つ」といえばその通りだが、毎回選考委員が変わり、毎回異なる価値観がぶつかった結果のコンペティション作品でグランプリを競うのも、その時代ならではのテクスチャーを紡ぐ有効な手段ではないだろうか。

6)今後へ向けて 
 私のある友人研究者は、「映画祭の成否は結局「観客を映画祭の一部」と考えるかどうかだ」と私に語った。これには私は考えさせられた。数多くの映画祭に参加し、また何度か選考審査に関わった経験を思い出し、なんとなく感じていた疑問が氷解したように感じたからだ。この研究者は、アニシズに変わってからは参加していない。
 その一方で、旧広島フェス以来長年参加しているオランダのベテランプロデューサーは、今回参加して、「昔からの参加者は自分だけになってしまった」という意味のことを語っていた。観客がそれだけ入れ替わり、刷新したということでもあるのだ。
 参加者、出品者の入れ替わりは、現在の運営サイドが望み、意図したことだろう。 

 新潟国際アニメーション映画祭についての記事でも書いたが、国際映画祭がその地歩を固め、個性を確立するためには3~4回の開催が必要である。
 アニシズは旧広島フェスの後継とはいえ、体制も運営も刷新され、今回が第2回目というカウントが適切である。
 つまりは、次回の第3回開催時に、本当の意味でその価値と存在感が問われることになるだろう。