小さな扉から見える世界の風景 -- 第15回吉祥寺アニメーション映画祭

 毎年恒例の吉祥寺アニメーション映画祭、今年で15回目を迎えた。私は初回以来、出品作のノミネートを行う選考委員と、本選の審査委員とを務めている。
 アニメーション映画祭とはいっても、出品作品数は多くて100本前後、今年は65本だった。吉祥寺(武蔵野市)に縁の深いアニメスタジオなどの企業賞も有する「街の小さな映画祭」である。それでも、それが15年も続いている例はあまりないはずで、またその間選考委員・審査委員とも固定メンバーから徐々に増えていったという歴史を刻んできたので、独特の実績を積み上げてきたといえる。
 とはいえ、繰り返しになるが「街の小さな映画祭」である。それは広大なアニメーションの世界の小さな扉であり、そこから見える風景には限界はあるが、今年は注目すべき作品が出品され、それが結果的にグランプリに選ばれたのは、この小さな扉から見える風景もまた一興だと感じた。
 
 昨日(10月20日)、本選上映と受賞作発表が行われた。
  http://www.kichifes.jp/wonderland/eigasai3.html
 これを書いている時点で、上リンクには受賞作一覧が発表されていないが、グランプリは、12.深谷莉沙さんの『MIMI』である。
 本作は、アニメーションのテクニックは抜群だが、よくあるような、日本でアニメファンとして時間を過ごし、アニメ制作技術を勉強して短編作家になった、という形跡は感じられない。明らかに異分野からアニメーションへ「越境」してきた作家特有のデザインと質感、そして構成である。
 残念ながら、現在のところネット等では公開しておらず、各国の映画祭に出品されている途上なので、すぐに見るのは難しいのだが、そのぶん、今回の吉祥寺で見ることができた観客は幸運だったと思う。
 本選の審査委員も多くが、グランプリに推した。
 
 ここ数年、アニメーションをめぐる世界の実情の変化は、そのスピード、内容とも著しく、私のように国内からそれを眺めている者にとっては、ついていくことさえ容易ではない。
 ただ、そのキーワードを一つ挙げるならば、先に掲げた「越境」である。それは、人材、資金、そしてジャンルにも及んでいる。
 その様相は、また別の機会に書いてみたいと思っているが、いずれにせよ、吉祥寺のような「小さな扉」からも、その世界の風景が垣間見えるようになったのは感慨深い。
 そうはいっても、私が昔から作家たちに変わらず求め続けていることもある。それは、自作において「引き算を恐れないこと」である。作品の呎数がわかりやすいのだが、もっと短くまとめれば確実に上位受賞に到達しただろう作品が、今回の吉祥寺でも見受けられた。
 引き算のやり方に、その作家の作家性が表れるのである。

新海誠監督、私は怒りませんでした。

 のっけから突飛なタイトルだが、最新作『天気の子』、公開初日に鑑賞した。
 本当に素晴らしかった。
 
 ほぼ1週間前、私の最新著書「新海誠の世界を旅する」(平凡社新書)が刊行された。
  https://www.amazon.co.jp/dp/458285916X/
 新海監督のこれまでのほぼ全作品を取り上げ、作品の舞台を私が旅しながら作品解読を行おうという趣旨である。Z会のウェブCM『クロスロード』も1章を割いて取り上げた。
 作品論・作家論になってはいるが、同時に旅行記でもあり、またそれぞれの地域の文化や地名の由来、鉄道史に至るまで、かなり広範囲の話題を取り上げた。
 その中で、私は『君の名は。』に関して、隕石衝突の大災害が「なかった」ことになったストーリーに疑問を呈したのである。これは公開当時から出ていた感想ではあるが、私は大災害を「なかった」ことにしたように見えることを指摘しつつ、むしろそれに関連して東日本大震災との関係を新海監督がインタビューなどで「喋りすぎ」たことを批判したのである。
  
 そうしたところ、『天気の子』公開直前、新海監督のインタビュー記事が発表された。
  https://news.yahoo.co.jp/feature/1389
 ここで彼は、『君の名は。』が「すごく批判を受けた」と告白した。それは「「代償なく人を生き返らせて、歴史を変えて幸せになる話だ」とも言われました。「ああ、全く僕が思っていたことと違う届き方をしてしまうんだな」と思いました。」と回想し、次回作(『天気の子』)では、「でもそこで「じゃあ、怒られないようにしよう」というふうには思わなかったです。むしろ「もっと叱られる映画にしたい」と。」
 つまり、新海監督が私の著作を読んだはずはないのだが、彼の弁に従うと、私は『天気の子』を見て、もっと怒る人に該当する可能性があったわけである。
 
 しかし、私は怒らなかった。
 『天気の子』は、彼のこれまでの作品歴の集大成というよりも、彼のキャリアを踏まえつつ異なるステージに上がり、驚くほど洗練された世界に満ち溢れていた。
 つまり彼は、アニメ監督から映画監督へとステージを変えたのである。
 新海誠監督は、他と比較されることのない独立峰として、アニメ界での存在感を、より確固たるものにしたのである。

2つの立場のクロスオーバー:『アニメ制作者たちの方法』

●『アニメ制作者たちの方法』
 編 者:高瀬康司
 出版社:フィルムアート社
 刊 行:2019年2月
 定 価:1,944円
 https://www.amazon.co.jp/dp/4845918080/ 
 
 ここ数年、アニメ研究のガイドブックというか指南書というか、そんなテーマの本が相次いで刊行されている。本書もそうした流れの一冊だが、類書とは違って多くの制作者たちが対談や談話で登場し、研究者による筆致と共存させているところがユニークである。
 私は「キネマ旬報」6月上旬特別号で本書の書評を発表したが、そのタイトルは「制作者と研究者のクロスオーバー」になった。
 かつて日本でのアニメ研究は評論家らによる座学だった。80年代のアニメブーム以降、アニメの社会的な位置づけが変わり、元来、もの言わぬ制作者たちが「発言する制作者(たとえば富野由悠季宮崎駿ら)」になった。さらにデジタルの時代に入って独自性を増した日本のアニメを的確に捉えるために「研究する制作者」が出現してきたのが現在、という趣旨の書評で、興味のある方は、この書評も併せて読んでいただければと思う。
 書評でも触れたことだが、本書には発展的な意味での課題もある。特に、多くの識者らによる「お勧めアニメ」がじゃんじゃん列記されているのは、こういうテーマ本の定番ではあるけれど、なんとかならないかと思う。先達が若者にむかって「座して知識と経験を語る」この種の方法以外の方法を模索し提示するのが、本書や類書が求められる役割である。
 もはや「アニメーション」は「アニメーション」だけでは成り立たず、扱えない、アニメーションの地場から一歩引いたところでのコンセプトワークを重視することこそ、アニメーションの本来像と未来性に迫るのだというあたりが、本書に通低する意識であり、これに従って、目次をさらに洗練させることができるはずだ。
 そう考えると、アニメ研究本の編纂は難しいと、あらためて思った。みんなファンなので、思い入れが強く、アニメーションという最新のテクノロジーを理解しているようで、意外に旧来の価値観から抜け出しきれないのだ。
 もちろん旧来からの価値観も現存して意味あるものであり、そこから抜け出さなくてもいいのだけれど、もしも抜け出すのなら、そして抜け出したいのなら、それに徹するべきである。

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ますます「雄弁」な映画祭 −− 第5回新千歳空港国際アニメーション映画祭

 新千歳映画祭開催の前夜、私は札幌・すすきののバーで飲んでいた。この店には以前にも来たことがある。マスターが「お仕事ですか?」と訊いてくれたので、「新千歳空港で明日からアニメーション映画祭があるんですよ」と言ってみた。
 マスターと、もう一人のスタッフは映画祭のことを知らなかった。そんなものだろうと思かけたところ、驚いたことに、常連客らしい中年の男性客2人のうち1人が「知っていますよ」との返事。
 もとより1軒のショットバーでの短時間「リサーチ」であり、これですすきのでの新千歳の知名度を推し測るのは無理である。
 
 11月2日から5日までの4日間、空港ビルを会場にするという斬新さが特徴の新千歳空港国際アニメーション映画祭の第5回が開催された。
 受賞結果など一般的な情報は映画祭HPを見ていただくとして、またそれら作品の個別の印象も省略し、ここでは、新千歳は「何をやろうとしているのか」について、書いてみたい。
 
 私は前年の第4回が初参加で、特にコンペティション作品の選出のユニークさに衝撃を受けた。とにかく、プログラム構成と集められた作品群からして「雄弁」なのである。
 今回は2回目の観覧、コンペティション部門も「インターナショナルコンペティション」のほか、日本作品だけを集めた「日本コンペティション」、学生作品を集めた「学生コンペティション」、ミュージッククリップなどを集めた「ミュージックアニメーションコンペティション」の4部門まで増強され、コンペインは合計76作品となった。これ以外に「長編コンペティション」も今回から始まった。
 初回から3回目までは未見ではあるが、それでも2回連続で参加すると、この映画祭が、その雄弁さの向こうで「何をやろうとしているのか」の一端が見えてくる。
 
 映画祭のフェスティバルディレクター(FD)の「アニメーションの新しい才能・新しい地平をいちはやく発見し世界とつないでいく」「アニメーションの現在と未来を見据えたプログラムを揃え」るという言葉に、すべてが象徴されているように思われる。
 ただ、この言葉だけなら、やはりまだ相当に抽象的である。そこに何枚もフィルターを重ね、何箇所かで切断・再構成していかないと、つまりは恣意的に事を進めないと、2000本以上の応募作の中からわずか76本のコンペティション作品を選べないし、目指すべき方向性(戦略)だけでなく、そこへ向かう個々の手法(戦術)が曖昧模糊としてしまう。
 私のような一観客は、選出されたコンペ作品とプログラム構成から戦略や戦術を推測することになるが、その限りにおいては、最終的な受賞結果はあまり重要ではなくなる。
 
 受賞結果は重要でない、とは言いすぎのようだが、それほどまでに、新千歳の応募作のコンペティションは、アニメーションの「新しい才能・地平」「現在と過去を見据えたプログラム」に彩られ、特色がある。それも当然で、応募作の選考委員はFDをはじめ、これまでの5回でほぼ同じメンバーだからだ。
 よく比較される広島国際アニメーションフェスティバルでは選考委員が毎回総入れ替えで、コンペ作品群の傾向も毎回変わる印象があるが、新千歳はそうではなく、固定された選考委員によって、新千歳の考え方が堅牢に維持され、発信しようとしているように思われる。
 
 その結果、応募作品を均等に選考審査するというよりも、最初から想定されたある枠組みに合致する作品を割り当てていく、ということになっているのではないか。
 さらに言えば、個々の作品よりも、作家の側に注目し、その作家の過去の活動歴を前提として、「この作家」が「今回こんな作品を応募してきた」ので「コンペインするか否かを決める」ということになっているのではないか。
 こうした傾向が仮に事実だとして、それの良し悪しに言及するつもりはない。その先にアニメーションの未来が見え、新しい才能とつながることができれば、それでよいからだ。
 
 ただ、日本人作家の作品のコンペの入り方に限って述べると、日本作品のみを集めた「日本コンペティション」(計12本)がある一方で、「インターナショナル」「ミュージック」に入った日本作品がそれぞれ2本、「学生」に入った日本作品が1本ある。しかし、学生作品でありながら「日本コンペ」に入った作品も複数ある。この差はいったい何なのか。
 これは、合計207本の応募があった日本作品から17本がどう選ばれたか以上に、私は気になった。
 そこで私がたどり着いた一つの推測が、先に述べた「作品よりも作家」という目線である。
 もう少し具体的に書けば、「新千歳はこの作家が好きなので、応募があれば出来るだけコンペに入れる」「この作家のテクニックはずば抜けているが、作家性が未完成なのでインターナショナルには入れない」といった意図が選考で加味されているように、私は感じた。
 
 こうして書いてくると、どうしても苦言を呈し、批判しているようになってしまうが、決してそうではないことを強調したい。
 新千歳のコンペは、観客に対して、時にプレッシャーとストレスを与える。これは、映画祭主催者の狙いと、あまりズレはないと思うし、私はそのプレッシャーやストレスが快感なので、前回に引き続いて今回も参加し、主催者から出禁を食らわないかぎり来年も参加するだろう。
 ただ、私がここで書いた新千歳の印象は私個人のものではなく、同じように感じている参加者やアニメ関係者は他にいることも事実である。それが、新千歳の目指す未来にネガティブな影響を与えないようにしなければならない。
 
 だいぶ長くなってきたが、あと2つ、書き添えたい。
 私が新千歳最大の魅力と感じるのは、いわゆる商業アニメと個人制作(インディペンデント)アニメとの区別はくだらないと考え、それを打破しようとしている点である。
 これは前回も感じたことだが、今回も、新海誠や石田祐康のような、インディペンデントからスタートし注目され、商業アニメで独自のポジションを獲得している作家に焦点をあてるプログラムに、よく現れている。
 そしてもう一つ。これは私の注意不足であればよいのだが、取材記者が少ない点が気になった。最終日の授賞式後、受賞者が会場ロビーの取材スポットに登壇しても、そこに集まった外部からの取材者は私を含め5〜6名、しかもそのうち少なくとも3名はメディアを持たないか、メディア関係者ではなかったと思う。
 これが実態だとすれば、今後の課題だろう。
 取材記者が多く集まり、メディアに取り上げられなければ、新千歳の存在が十分知られない。一般のメディアの眼は気にしないと考えるなら、それはそれで一つの価値観だが、新千歳の「新しい才能・地平」「現在と未来を見据える」というポリシーに吸引されてくる者たちを迎え入れるだけではなく、そっぽを向き加減の者たちを振り向かせる目線と言葉も必要だと、私は思う。
 つまりは、「雄弁」であり続けてほしいのである。
 
 新千歳空港国際アニメーション映画祭HP
  http://airport-anifes.jp/
 

「新海節」の再認識 −−『秒速5センチメートル』爆音上映

 11月2日から行われている第5回新千歳空港国際アニメーション映画祭、順調に日程を消化している。
 今回からコンペティション部門がさらに充実し、従来からのインターナショナルコンペティション、日本コンペティション、ミュージックアニメーションコンペティションに加え、学生コンペティション、長編コンペティションが加わった。
 これで伝統の広島国際アニメーションフェスティバルとの差別化がますます図られているわけだが、まだ4日間のうち2日間を見終わったところなので、受賞作を初めとする総括は、また後日書くとして、コンペティション部門のプログラム以外でいうと、昨日の2日目に注目のプログラムが集まっていた点に触れておきたい。
 
 2日目には、今年の話題作の一つ、ウェス・アンダーソン監督の長編『犬ヶ島』と、新海誠監督の『秒速5センチメートル』の2本の爆音上映があり、私は特に『秒速』の爆音上映を楽しみにしていた。
 爆音上映というのは、音楽ライブ用の音響設備を使って、通常の映画上映よりもはるかに大音響で映画を楽しむものである。音は空気振動であり、その振動=音をより厚みと重みをもって全身で体感できる、とでも言えよう。
 ただ、誤解しないでいただきたいのは、爆音といっても、耳をつんざくような大音響というわけではなく、したがって、単にサウンドトラックのボリュームを上げて上映しているのではない。映画1本ごとに「爆音」の設定は変わり、そのあたりの技術は相当に繊細なようなのだが、だからこそ、私が新海監督の最高傑作と考える『秒速』の爆音上映に注目したのである。
 
 私は今まで新海誠作品について、著作で何度も『秒速』を「新海節」の典型と書いてきた。「実写以上」といえる風景描写、光と色彩の演出、独特のリズム感のカメラワーク、語りかけるような音楽、そしてキャラクターの心理を演技やセリフではなく長いモノローグで表現するなど、これらが『秒速』で完成され、『君の名は。』よりも印象深い。
 そしてこの「語りかけるような音楽」、これが爆音上映でどうなるか。
 結論を書けば、「語りかけるような」が損なわれたわけではないが、まったく別の音楽に聞こえた。場面によっては、少し濁った音色に感じたし、あくまで比喩で書けば、オリジナルはベーゼンドルファーのピアノで繊細に弾いていたが、爆音ではベヒシュタインのピアノで勢いよく弾いているように聞こえた、というところだろうか。
 批判をしているのではない。私自身、一方の『犬ヶ島』での爆音でも期待通りの点と意外な点とが混在したことと合わせて、爆音上映の特色をあらためて認識し、新海作品の知られざる一面を知れたというもので、ようは勉強になったと感じたからである。
 
 その新海誠の仕事がもたらした一つの発展形と言えようか、コミックス・ウェーブ・フィルムが中国のリ・ハオリン監督との共同で手がけた長編『詩季織々 −しきおりおり−』の上映が、『秒速』爆音上映のすぐ後で組まれ、それを見ることができたのも大変有意義だった。
 『秒速』と同じく3本のエピソードによるアンソロジーで、それぞれ監督は異なるが、私は第3話の「上海恋」が抜群によかった。
 
 爆音上映と『詩季織々』上映とで、「新海節」を再認識でき、新海誠作品が世界アニメーション史で語られるための次のステップに移った、そんな映画祭第2日目だった。
 
 第5回新千歳空港国際アニメーション映画祭:
  http://airport-anifes.jp/